アジサイ(紫陽花)・ガクアジサイ額紫陽花)・シチダンカ(七段花)

    六月になると、美術館の庭に十数種類のアジサイが咲きそろう。青、紫、紅、白など、彩りも美しい。アジサイは梅雨空によく似合っている。一歩美術館を出て周辺を歩くと、家々の庭の花を飾っているし、野原や空き地にも咲いている。また道ばたに街路樹代わりにアジサイが植えられ、目を楽しませてくれる。少し足を伸ばして、城ヶ崎海岸に行く。城ヶ崎海岸は大昔、大室山が噴火した溶岩流が海に流れ込んだ所で、海岸はほとんどが断崖がなっている。海岸沿いの道は断崖の上を縫うように連なっている。歩くと、道の両側に点々とガクアジサイが群生して咲いている。特に吊り橋のある門脇岬にひときわ大きな群落が見られる。ガクアジサイは房総半島から三浦半島、伊豆半島、伊豆諸島に自生している。すなわち美術館のある伊豆半島はガクアジサイのふるさとである。ガクアジサイは数多くのアジサイの原種とされる。ガクアジサイは中央の多数ある小花が本当の花(両性花)で、この花序の周辺部を縁取るように萼が変化した装飾花をもつ。、園芸では「額咲き」と呼ぶ。それに対し、ガクアジサイから変化し、花序が球形ですべて装飾花となったアジサイは、「手まり咲き」と呼ばれる
 アジサイはアジサイ科アジサイ属の総称であると共に、アジサイ属の一種である手まり咲きアジサイを指す。紛らわしいので、手まり咲き種のアジサイをホンアジサイとも呼ぶ。
 ホンアジサイはガクアジサイを母種として生まれた園芸種とされる。しかし、いつ頃園芸化されたのか全く分かっていない。ただ、自然に変異したもので自生しているとの説もある。
 室町時代に著された華道の古書『池坊専栄花伝書』に手まり咲きのアジサイが描かれていることから、鎌倉時代から室町時代にかけて、アジサイの園芸が始まったと考えられる。

ホンアジサイの装飾花の中にわずかだが両性花があり、まれに種ができるが、ホンアジサイは挿し木や株分けで増やす。

 アジサイの語源ははっきりしないが、最も有力とされているのは、大槻文彦が著した「大言海」で「アヅサヰ(集真藍)」が訛ったとする説で、「藍色が集まったもの」を意味する。それ以外では、『万葉集』の中で橘諸兄は「アヂサヰ(味狭藍)」と記した。味は誉め言葉で、狭藍は青い花のことである。「アヂサハヰ(集まって咲くもの)」とする山本章夫の説(『万葉古今動植物正名』)、「アツサキ(厚咲き)」が転じたものであるという貝原益軒の説がある。

 日本の文献でのアジサイの初出は万葉集であり、それ以前の古事記や日本書紀には触れられていない。万葉集では左大臣の橘諸兄と大伴家持の二首である。それ以降、植物が多く登場する枕草子や源氏物語にも出てこない。万葉集で詠まれたアジサイは何だろう。橘諸兄は奈良の都平城京で、大伴家持は京都の恭仁京(くにきょう)で歌を詠んでいる。アジサイの分布から考えると、ヤマアジサイの可能性が高い。それでもヤマアジサイは山の渓谷にしかないので簡単に手に入るものではない。位の高い貴族だからできたことで、アジサイは奈良時代から平安時代の中頃まではまだ馴染みのある花ではなかったのだろうか。

 タイトルにもあるように、アジサイは漢字では「紫陽花」と書く。これは平安時代中期の学者源順(わたなべしたごう)が辞典である『倭名類聚鈔』を著した時にアジサイにあてた漢字である。それまでアジサイにふさわしい漢字がないと思っていた源順は、中国の唐の時代の詩人白居易(白楽天)の『長慶集』の中から「紫陽花」という漢字を見つけてアジサイにつけたものである。白居昜は、お寺に植えられて紫色の花を咲かせていた植物にまだ名前がつけられていないことを知り、それに「紫陽花」と名づけた詩を詠んだ。
源順はそれこそアジサイであると勘違いしたのだろう。中国にアジサイは    「週刊花百科⒂ あじさい」(講談社)
自生しないし、白居易はその植物は香りがすると記しているが、アジサイには香りがない。白居易の名付けた植物はおそらくライラックだと推定されている。


 ヨーロッパに最初にアジサイを紹介したのは1690~92年に、オランダ商館付の医師として日本に滞在したケンペルである。『廻国奇観』と題する本の中でわずかに触れただけなので、あまり知られることはなかった。
 次にカール・ツンベルクが1775~76年、やはりオランダ商館付きの医師として日本に滞在し、江戸参府も果たし、その道中で多くの植物標本を採集した。そして帰国後『日本植物誌』を表しアジサイも紹介した。
 実物が伝わったのは1789年、イギリスのキュー植物園の園長バンクス卿が派遣した植物ハンターが日本から中国に伝わっていたアジサイを中国から持ち帰ったことによる。
 アジサイを世界に広く紹介したのはシーボルトである。彼は1823年に、オランダ商館員の医師として長崎に渡来し、オランダ人と偽って出島に滞在し医療と博物学的研究に従事したドイツ人医師にして博物学者である。オランダに帰還してから植物学者のツッカリニと共著で『日本植物誌』を著した際にアジサイ属 14 種を新種記載している。その中で花序全体が装飾花になる園芸品種のアジサイを Hydrangea otaksa Siebold et Zuccarini と命名している。しかしこれはすでにカール・ツンベルクによって記載されていた H. macrophylla (Thunberg) Seringe var. macrophyllatoと同一種とみなされ、植物学上有効名とはならなかった。
 シーボルトは自著の中で otaksa をアジサイが日本で「オタクサ」と呼ばれていると命名の由来を説明しているが、牧野富太郎や他の植物学者は長崎地方の方言かと考え調べたが分からず、日本国内にはこの呼称が確認できず謎として残った。この謎を解いたのは箱根で旅館を経営しながら植物を研究していた澤田武太郎で、シーボルトの愛妾の楠本滝(お滝さん)の名にちなんでいると推測した。

また、シーボルトの『日本植物誌』にはアジサイ属の一種として、シチダンカが掲載されている。しかし、植物学者が日本中を探しても発見できず、おそらくシーボルトが日本に来るまでの間に寄港した地で採集したものが混じったのではないかと推測した。シチダンカは幻の花となった。
 それが1959年(昭和34年)、植物好きの小学校の用務員が六甲山中で見慣れぬ花に遭遇した。彼はそれを採集し、農学博士の室井綽(ひろし)に送り、シチダンカと確認された。シチダンカはヤマアジサイの変種とされる。中心部の小さな両性花を星のような形をした八重咲きの装飾花が囲む。両性花は未熟なまま開花しないで落ちてしまうため種ができず自然繁殖しにくい。そのため現在みられるシチダンカは発見されたものを元に挿し木によって増殖されてきた。

ヨーロッパでは、青い花が大きなかたまりとなって咲くことが感動を呼び、「東洋のバラ」として愛好された。ヨーロッパの人々はアジサイを改良し、花も大きく花色も豊富になった。日本の園芸界は、こうしてヨーロッパで改良され、里帰りしたものを「西洋アジサイ(ハイドランジア)」と呼んだ。
 現在、西洋アジサイと在来種を交配して、日本の庭に合う園芸品種も作出されている。

 アジサイ属の一部の種では、ウシ、ヤギ、人などが摂食したことによる中毒事例が報告されている。症状は過呼吸、興奮、ふらつき歩行、痙攣、麻痺などを経て死亡する場合もある。1920年にアメリカでアジサイの1種アメリカノリノキ Hydrangea arborescens によるウシとウマでの中毒について、下痢・体温上昇・呼吸数と心拍数の増加・骨格筋の強い収縮・足を突っ張って飛び上がるなどの症状が見られたが、対症療法により回復したと報告されている。

 アジサイ属の毒性物質は青酸毒の可能性が高いが、まだ確認されていない。厚生労働省の「自然毒リスクプロファイル」に中毒事例が紹介されている。
( 症例1) 2008 年 6 月 13 日、茨城県つくば市の飲食店で、料理に添えられていたアジサイの葉を食べた 10 人のうち 8 人が、食後 30 分から吐き気・めまいなどの症状を訴えた。
(症例2) 2008 年 6 月 26 日、大阪市の居酒屋で、男性一名が、だし巻き卵の下に敷かれていたアジサイの葉を食べ、 40 分後に嘔吐や顔面紅潮などの中毒症状を起こした。いずれも重篤には至らず、 2 ~ 3 日以内に全員回復した。

 アジサイの花色の変化の原因は、大きく分けて二つある。一つ目は、花の中の色素が少しずつ分解されておこる現象で、老化現象の一種である。アメリカアジサイとされる『アナベル』も白色から緑色へ、日本アジサイ(ヤマアジサイ)とされるベニガクアジサイも白色から深紅へと変化するのも同じ現象である。そしてもう一つは、土の酸度による変化である。
アジサイの花色は土の酸度によって決まるということは、意外とよく知られている。アジサイの花色は、アントシアニン系色素がはたらいて、青色やピンク色が発色する。青色は、土中のアルミニウムが吸収され、色素と結合して発色し、逆に、アルミニウムが吸収されないと、ピンク色が発色する。アルミニウムは酸性土壌でよく溶け、アルカリ土壌では溶けないからだ。だから、土を酸性にすれば青花になり、中性~弱アルカリ性の土壌ではピンク色になる。