アサガオの日本の文献での初出は万葉集である。万葉集には5首でアサガオが詠まれている、その中で、代表的な山上憶良の歌がある。 秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七種(くさ)の花 (巻8.1537) 萩の花 尾花(おばな)葛花(くずはな) 撫子(なでしこ)の花 女郎花(おみなえし)また藤袴(ふじばかま) 朝顔の花 (巻8.1538) 山上憶良が秋の野に咲く七種(草)を詠んだ歌である。この中のアサガオについて、現在のアサガオ、ヒルガオ、ムクゲ、キキョウとする説が出されている。 アサガオをムクゲとしたのは賀茂真淵であるが、山上憶良の歌は秋の野草を詠んだ歌なのでムクゲではない。また、現在のアサガオは奈良時代の末か平安時代の初め頃に遣唐使が薬用植物として中国から持ち帰ったものとされているので野草ではない。また、さらに次の歌から、朝から夕刻まで咲いている花が考えられ、このことからも現在のアサガオが候補から外れ、ヒルガオかキキョウと考えられる。 朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕影にこそ 咲きまさりけれ (読み人知らず 巻10.2104) (朝顔は朝露を受けて咲くというけれど,夕方の光の中でこそ咲きまさるものだなあ) ヒルガオは容花(かおばな)という名があり、他にアサガオとする有力な根拠もない。これにたいし、キキョウ(桔梗)は日本最古の辞書である「新撰字鏡」(898--901年)に「阿佐加保(あさかほ)」としていることから、現在最も有力とされている。 アサカホ(阿佐加保(あさかほ))はもともと固有名詞ではなく、一般名詞だった。「言海」によると、カホは「形秀(かたほ)の略」で、姿形が整ったものの意である。アサガホとは朝に美しく咲いている花という意味であり、万葉時代にはそれがキキョウとされたのだろう。 それでは、いつ頃からキキョウから現在のアサガオに変わったのだろうか。前述のようにアサガオは遣唐使が薬用(下剤)として持ち帰ったとされる。アサガオの中国名は牽牛花、種は牽牛子(けにこし)といった。中国の本草書である「本草経集注」(陶弘景)に「牛を索(ひ)きて薬に易(か)ふ。故に之を名づく」と」牽牛子の由来を記述している。牽牛子が非常に高価な薬だったことがわかる。しかし、効き目が強すぎたため薬としては使用されなくなった。 日本現存最古の薬物辞典「本草和名(ほんぞうわみょう)」(918年)や源順(みなもとのしたごう)が編纂した「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」(931 - 938年)には、牽牛子を「阿佐加保」としていることから、10世紀の初めころにはキキョウから牽牛子(花)に入れ替わったようだ。 こののち、牽牛子(花)は観賞用として広く栽培されるようになり、平安時代を代表する文学書である「枕草子」や「源氏物語」にも登場する。 アサガオはヒルガオ科サツマイモ属の蔓性一年草。南中国からヒマラヤ、ネパールの山麓地帯かあるいは東南アジア原産とされる。しかし近年になって、熱帯アメリカ大陸が原産地であるとする説が出されている。この説ではアジアやアフリカ地域のアサガオは有史以前にアメリカ大陸から伝播したことになる。 茎は左巻きに物に巻き付いて伸び、長さ2mにもなる。茎、葉ともに粗毛が生える。葉は深く3裂し、長い柄を持ち互生。夏の早朝、径10~20cmの漏斗状の花を葉腋に1~2個つける。花は午前中にしぼむ。 アサガオを園芸観賞用として本格的に改良を進めたのは日本だけである。 アサガオの原種は淡い青色の花をつけるが、突然変異の結果、17世紀の初め頃にまず白花が現われ、ついで赤花が生まれた。水野元勝「花壇綱目」延宝9年(1681)には青花と白花が記載されている。 アサガオは花の色に変化が出やすく、手軽に栽培を楽しめることから、庶民の花として江戸の社会に浸透していった。白花の発見を端緒に、紫、薄紅、淡紅色、瑠璃色などの花色が現れた。花の咲き方も、細かく切れた「采咲(さいざき)」、花弁が管のようになった「獅子咲」、牡丹の花のような「牡丹咲」、風車に見立てた「車咲」など多彩な花が作出された。また、葉も花に劣らず変化を見せる。このような朝顔を変化朝顔という。 すなわち変化朝顔とは、突然変異によって奇抜なものに変化した朝顔のことで、「正木」と「出物」の2つのタイプに分けることができる。「正木」とは種が採れるタイプのことで、次に植えたものも同じ変化が起こるが、変化はそれほど奇抜なものではない。「出物」とは遺伝子の組み合わせによって、オシベやメシベが花弁に変化したため、種が採れなくなったものである。そのため奇抜に変化したものが多い。ただ、出物は種が採れないため、同じ親株の種から育った変化していない兄弟株を種採り用に育てる必要がある。 文化・文政年間(1804-1830)、続いて嘉永・安政年間(1848-1860)にアサガオ・ブームが起き、変化アサガオや大輪アサガオに多くの品種が作出された。ブームの発端は、文化3年(1806)の江戸の大火で下谷に広大な空き地ができ、そこに下谷・御徒町村付近の植木職人がいろいろな珍しい朝顔を咲かせたことによる。その後、趣味としてだけでなく、下級武士の御徒が内職のひとつとして組屋敷の庭を利用して朝顔栽培をするようにもなった。 木版の図譜類も多数出版された。四時庵形影「あさかほ叢(あさかほそう)」文化14年(1817)に変化アサガオ、大輪アサガオ合わせて502品描かれている。万花園主人撰『朝顔三十六花撰』嘉永7 年(1854)には変化アサガオが36品描かれている。なかにはアサガオとは思えない姿をした花もある。当時は黄色い花をつけるアサガオもあったが、現在では失われてしまった。著者の「万花園」は幕臣の横山正名の号である。 田崎草雲「三都一朝」嘉永7年(1854)には変化アサガオが86品、記載されている。 江戸時代に作られたとされる「黄色の朝顔」と「黒色の朝顔」の再現が度々試みられているが、完璧な再現に至っていない。このため「黄色の朝顔」は「黒色の朝顔」と並び、「幻の朝顔」と呼ばれる。
2014年10月、鹿児島大学とサントリーグローバルイノベーションセンターの共同研究により、キンギョソウ由来の遺伝子を使って黄色の朝顔を咲かせることに成功した。しかし、これは科学の力を利用したもので、江戸時代の人が作出した秘密はわからないままである。
江戸時代の人々は、花弁や葉の変化の仕方を珍重し、より変化が多く、整った花を賞賛した。しかし、これらの変化アサガオは明治になると下火になり、変わって大輪のアサガオが好んで栽培されるようになった。さらに、戦後は大輪朝顔が主流を占めるようになり、直径20cm以上にもなる花を咲かせることのできる品種も現れた。もちろんそのためには高度な栽培技術が確立されたことも重要である。変化朝顔は維持が難しいためごく一部でのみ栽培されているが、最近再び注目されつつある。
近年の育種種の大きい成果の一つに曜白(ようじろ)朝顔がある。「曜」とは花の中心から花の縁に伸びる筋である。この筋を白くしたのが曜白である。作出は静岡大学名誉教授の米田芳秋による。米田はマルバアサガオとアフリカ系のアサガオを交配させ、日本の園芸アサガオを掛け合わせた。その過程で花弁の曜の部分が白くなる系統が発見され、曜白朝顔作成に繋がった。後に大手種苗会社から発売されたことにより一般に普及した。 |