『いずれアヤメかカキツバタ』 どちらも優れていて、優劣がつけがたいときに使う慣用句である。この慣用句は室町時代に書かれた『太平記』の中の故事に由来している。 平安時代末期の武将源頼政は近衛天皇を夜な夜な悩ませていた鵺(ぬえ:頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という怪物)を退治した。この功績により近衛天皇の父である鳥羽上皇から褒章を賜ることになった。頼政は鳥羽上皇の側近で美人という噂の高い菖蒲の前(あやめのまえ)という女官に思い焦がれていた。 それを知った鳥羽上皇は、「この中から、『菖蒲の前』を首尾よく選べたら、彼女を褒美として娶らせる」と、十二人の美女を紹介した。 頼政は、あまりの美女揃いのために、いずれが菖蒲の前なのかの判断がつかず困り果て、 「五月雨に 沢辺のまこも 水越えて いずれ菖蒲と 引きぞわづらう」と詠った。 (五月の雨で川が増水して、岸に生えるマコモとアヤメとの区別がつかなくなるように、十二人のうちの誰が『菖蒲の前』なのかわからなくなった) 鳥羽上皇はこの歌に感心し、めでたく、頼政は菖蒲の前を娶ることができた。この逸話から、後の時代に「いずれアヤメかカキッバタ」という慣用句が生まれたとされる。 しかし、平安時代のアヤメは現在のアヤメのことではない。この頃、アヤメはショウブ科のショウブ(かつてはサトイモ科に分類されていた)を指していてアヤメグサといい、、現在のアヤメはハナアヤメと呼ばれていた。ショウブは端午の節句の時にお風呂に入れる香りのよい草である。ショウブは剣のような細い茎の先に目立たない黄緑色の穂花を咲かせる。 川の水があふれて、マコモとショウブが入り混じればどちらがどちらともわからないという意味である。したがって、『菖蒲の前』は花の姿を例えているのではなく、剣のようなしなやかな葉の姿と香りのよさをイメージしたものだろう。 ただ、後に慣用句となった「いずれアヤメかカキツバタ」のアヤメは花の美しさを例えたもので、現在のアヤメに他ならない。 アヤメにカキツバタ、さらにハナショウブを加えて、いずれもアヤメ科の植物で花姿が美しく、その違いが分かりにくいものである。次の表のように区別される。
週刊花百科⑪「y目と燕子花」(講談社)より アヤメはアヤメ科アヤメ属の多年草。日本全土、シベリアの山野の草地に自生する。葉は直立し高さ40~60cm程度。5-7月、茎の先に鞘状の苞に包まれて、径8cmほどの紫色の花を1-3個順に咲かせる。紫の花弁の付け根が黄色で、そこに紫色の網目模様がある。花茎は分岐しない。 アヤメの語源について、文目(あやめ=模様)とするのが通説になっている。葉が形よく並び立っているのを美しいあやがあると考えたことから。または葉に縱に並行した文目があることから。あるいは外花被片の基部に網目模様があるためとする。 網目模様とする説が一般には最も受け入れられているようだが、ショウブが本来アヤメグサと呼ばれていたのなら、ショウブには網目模様がないのでこの説はありえない。 葉の立ち姿や葉の並行した葉脈を文目とする説はどうなのか。 『万葉集』には万葉仮名で安夜女具佐や安夜賣具佐と書かれたアヤメグサが五首に登場する。アヤメのメは女か賣であって目ではない。国語学者によると、上古の時代には母音は甲乙の2つのグループに分けられていた。このメについては、女、賣は甲のグループで、目は乙のグループであるから、安夜女が文目になることはなく、両グループが混用されることは全くないという。 古来中国では、5月は物忌み(悪月)で5が重なる5月5日は最悪の日とされた。ショウブやヨモギは魔除けや厄払いの霊力があると考えられ、菖蒲酒を飲んだり、ちまきや餅を作って食べたり、お風呂に入れたりして穢(けが)れや災厄を祓(はら)った。この風習が日本に伝わり、奈良時代から端午の節句には厄払いの行事が行われるようになった。 菖蒲鬘(あやめかずら)と称して、五月五目の節会に、天子や群臣などがショウブやヨモヂを冠に結びつけた。この風習はその後も長く宮中で守られており、鬘をつけてない者は何人も宮中に入ることが許されなかった。 またこの行事の時、宮中では菖蒲(あやめ)の蔵人(くらんど)が、親王や公卿たちに、ショウブにヨモギを配して作った薬王(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を渡し、舞いを舞って見せた。 菖蒲の蔵人とは、この日薬玉を天皇から列席の貴人らに賜わる儀式において、これを取り次ぐ役目をする女蔵人(女官)のことで、若く美貌の女性がこの役に選ばれたものらしい。 よく知られているように、奈良時代の宮中には漢女(あやめ)と袮して、中国から渡来した、機織(はたおり)の技に長じた女性達がいて、、その漢女が菖蒲の蔵人の役目を仰せつかり、薬玉を収り次いだことから、ショウブを漢女草と袮するようになったのではないか。 カキツバタは本州中部以北と北海道に自生。草丈は60cm程度で、葉幅はアヤメやハナショウブより広く、外花被片の基部に白い筋が入る。5~6月、茎の先についた2個の鞘包の間から、普通3個の花が順に咲く。 江戸時代にはカキツバタの園芸化が行われていた。伊藤伊兵衛三之丞の「花壇地錦抄」元禄8年(1695)に、13品紹介されているが、伊藤伊兵衛政武「増補地錦抄」宝永7年(1710)には1品しか紹介されていない。人々の関心がカキツバタからハナショウブに移っていったと思われる。 カキツバタという名前の語源は、昔、この植物の花の汁で、布にかきつけるので、「掻きつけ花」、あるいは、「書きつけ花」とよばれた。この「カキツケバナ」という名前から、やがて「カキツバタ」となったといわれる。ただ、「カキツケバナ」から「カキツバタ」に変化するのは自然ではないとする説もある。 江戸時代の新井白石が語源辞書『東雅』で、「カキツバタ」は、古く「カキツハタ」といい、「万葉集」では「垣津旗」「垣津幡」などと書かれている。白石はこれを基に、「垣の下に立って咲いているところからそう言うのだろう」と記している。つまり、「垣の旗」という意味である。 ハナショウブはノハナショウブを原種として改良された園芸品種の総称である。葉は直立し剣状でアヤメに似るが、隆起した中脈を持つ。6~7月、茎の先に基部を鞘包に包まれた赤紫色の花を付ける。 花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数あり、絞りや覆輪などもある。大別すると、江戸系、伊勢系、肥後系の3系統に、原種の特徴を強く残す長井古種(長井系)を含め、4系統に分類でき、古典園芸植物でもある。 近年の考察では、おそらく東北地方でノハナショウブの色変わり種が選抜され、戦国時代か江戸時代はじめまでに栽培品種化したものとされている。これが江戸に持ち込まれ、後の三系統につながった。長井古種は、江戸に持ち込まれる以前の原形を留めたものと考えられている。 ハナショウブの栽培は室町時代には始まっていたともいわれ、江戸時代中期には、飛躍的に栽培熱が高まった。「花を愛でるのは武士のたしなみ」とされ、江戸では一大園芸ブームが巻き起こった。大名や旗本たちも、ハナショウブの実生や交配を試みたのである。寛文年間(1661~73)には、尾張藩主徳川光友が江戸屋敷にハナショウブを植えたといわれている。天和元年(1681)に発表された日本初の園芸書『花壇綱目』には、「花菖蒲 花紫、白、浅黄、薄色しぼり、飛入りあり」と記されており、変わり咲きのハナショウブの存在を伝えている。「花壇綱目」に6種、「花壇地錦抄」に11種、「増補地錦抄」に40種が記載されている。江戸時代後期の旗本松平左金吾定朝も。この花の品種改良に心血を注いだ一人である。『花菖培養録』嘉永6年(1853)には21品を収録する。自らを「菖翁」と称した左金吾は、ハナショウブの交配を繰り返し、ついに外側と内側の花弁6枚がともに大きく開く「六英咲き」の大輪花を作出。安政3年(1856)、84歳で没するまでに、白に紫絞りの縁取りをもち、今なお名花と謳われる「宇宙」(おおぞらとも読む)をはじめ、約300品種ものハナショウブを世に送り出した。現在、定朝の作出した品種は20種ほどしか残っていない。 そして江戸時代後期には、百姓伊左衛門が西葛西領堀切に花菖蒲園(のちの小高園)を開いた。彼は作出品種を門外不出としていた菖翁に反し、各地から集めた花に加え、菖翁から譲り受けた花までも庶民に見物させ、江戸名所として隆盛をきわめていった。 「宇宙」 それ以前は、原種に近く清楚な趣の「長井古種」のような花が好まれたが、江戸で育成されたハナショウブは、池の畔などで群生美を楽しむことに主眼が置かれた。そのため、丈が低く、見下ろす目線に心地よい花形、鮮やかな花色が追求された。この「江戸系」のハナショウブは、肥後(熊本)や伊勢(三重県松阪)に伝わり、おもに六英咲きで、鉢植えにして個々の美を観賞する「肥後系」 や、花弁が深ぐ垂れ、繊細な三英咲きを喜ぶ「伊勢系」を生んだ。 明治時代になると、ヨーロッパからキショウブが導入されたが、近年、交配が行われ、ハナショウブは「黄」という新たな花色を得た。今日、日本が世界に誇る園芸花のひとつとなったハナショウブは海外でも作出され、その品種数は約5000ともいわれる。 昭和17年、小高園は戦中の食糧難から水田となり閉園したが、当時愛でられた花は『小高園図譜』(明治18年)に見られる。現在では菖翁の品種も含め、戦前までの作出品種を「江戸系古花」と呼び、各地の花菖蒲園などで育てられている。 |