ボタン(牡丹)


   ボタン

 ボタン科ボタン属の落葉低木。中国原産。北斉時代(550~577)には栽培されていたが、花を観賞するのではなく、薪として利用されていたようだ。
 やがて唐代半ばには庭で栽培されるようになり、玄宗皇帝が特に愛好したことで中国一の名花としてもてはやされるようになった。
 晩春から初夏、枝の先に径15~20cmの大輪の花を1個つける。花色は紫、紅、淡紅、白、黄とさまざま。花弁は8個以上で数は不同。
 いつ日本に渡来したかはっきりした記録はないが、10世紀の日本現存最古の薬物辞典「本草和名」(918)に紹介されているので平安時代初期頃に遣唐使が薬としてもたらしたと思われる。また「出雲国風土記」(733)の意宇(おう)の郡(現在の安来辺り)の山野に「牡丹(ふかみぐさ)」が記されていて、これに寄れば奈良時代末期には渡来していたことになる。以来改良が重ねられ重弁の日本品種が作られた。中国では花の豪華さから「花王」と呼ばれ、珍重された。ボタンの名は漢名の「牡丹」を日本語読みしたものである。

中国ではもともと木芍薬と呼ばれていたが、漢代以降に牡丹と呼ぶようになった。
「牡丹」の語源には諸説ある。
 ・「丹」は赤という意味で、牡丹の原種の花または根皮が赤色だからという。
  -「牡」は単なる発語詞とする
  -当時は園芸技術が未熟なためにボタンは種子からしか育たないが、まいた種子から   ほとんど育たないので、この種子は「牡(おす)」に違いないと考えた 
-上の説とは反するものもある。ボタンは自家不和合性なので、親と同じ花を育てる   には挿し木、接ぎ木しかない。それが種子を使って増やすより雄(オス)的なので   「牡」の字が使われた。
・ボタンの原産地は中国西部のブータン地方であり、このブータンが語源だとする。
(注:牡丹の原産地についても諸説ある)

 鑑賞植物として多くの品種が生み出されたのは江戸時代になってからである。
作者不明の『牡丹名寄』貞享5年(1688)に300種、伊藤伊兵衛三之丞『花壇地錦抄』元禄8年(1695)には481種が記載されている。滝沢馬琴はボタンについて、『宝永年間(1704~1711)の頃に至りてこの花を弄ぶこと異朝唐宋の時に譲らず』とその隆盛ぶりを記した。18世紀には武家や商家の庭をはじめとして、江戸中にボタンの名所があった。
 しかしながら、江戸時代のボタンの品種は、わずかにその名をとどめるばかりで、現在栽培される品種の多くは、明治以降に作出されたものである。

 「牡丹に獅子」「牡丹に蝶」はよく見かける意匠である。「牡丹に獅子」は「牡丹」が「花王」とされたことによる。獅子は百獣の王である。鎌倉時代の建築彫刻に使われ、以降工芸美術に好んで使われた。
 「牡丹に蝶」は京都の東寺が所蔵する平安時代の木器にすでに描かれていた。鎌倉時代には「蝶牡丹唐草文」が手箱側面の螺鈿蒔絵に使われている。それ以降、室町時代の綾小袖、江戸時代の陶磁器や染め物の絵柄としても使われている。
六月の花札に牡丹と蝶が描かれている。葛飾北斎の絵に「牡丹に蝶」がある。

 俳句では数多く詠まれている。


         花ひとつ蝶二羽来る牡丹かな  正岡子規
         白き蝶牡丹の花をかいくぐる  細見綾子

しかし、蝶は口吻を使って花の蜜や樹液を吸いに来る昆虫で、花蜜を持たないボタンを訪花することはない。

 ボタンの根皮を牡丹皮(ぼたんぴ)といい、消炎、鎮静作用などがあり、他の生薬と配合して下腹部の血行障害などに用いる。