コーヒーノキ

 
現在コーヒーは全世界で常用の飲み物となった

 コーヒーノキは熱帯のアカネ科コーヒーノキ属の植物で、エチオピア原産である。その灌木は雨の多い温暖な気候の高地でよく育つ。今なお栽培されているが自生もしている。栽培されているコーヒーノキは約10種あるが、とりわけ重要な2種がある。アラビカ種とロブスタ種で、実際には世界中で生産されているコーヒーはすべてこのいずれかである。前者はゆたかで繊細な芳香と味で、後者は安くて刺激が強く苦くてインスタント・コーヒーによく使われる。流通しているコーヒーの大半には両者が混ぜられている。
 6~9世紀にペルシアの軍隊がコーヒーをアラビアに伝えた。コーヒーは初め豆を包む果肉を乾燥させ煮出して飲んだが、13世紀後半にコーヒー豆を焙煎し、香り高い液を飲むようになった。コーヒーを飲み物として利用した人々はイスラム教の神秘主義集団のスーフィーと呼ばれる僧侶たちで、15世紀後半南アラビアにおいてであった。
彼らはコーヒーの興奮作用、不眠作用、食欲低下作用を求め、コーヒーを飲みながら礼拝を行った。やがて眠気払いのための飲み物として一般の人々も飮むようになり、1554年トルコのイスタンブールに初めてコーヒーハウスが現れ、皇帝セリム2世の時代(1566 - 1574年)には600軒を超え社交の場となった。
 17世紀前半、地中海貿易において主導的な役割を果たしていたヴェネツィアの商人を介してコーヒーはヨーロッパ各地に広まっていく。17世紀のヨーロッパ社会では、ビールやワインが水代わりに飲まれていた。コーヒーはアルコール度数の低いビールやワインに代わる、衛生的な飲料として受け入れられた。そして1650年のイギリスを皮切りに、1672年フランス、1679年ドイツと、ヨーロッパの主要都市に次々とコーヒーハウスか開店した。17世紀末にはイギリスで3000軒ものコーヒーハウスが営業していた。
 アラビアでは煎ったコーヒー豆の粉を香料とともに煮立て、澱(おり)を濾さずに飲んだが、ヨーロッパでは煎った豆の粉を熱湯で抽出した液から澱を除き、砂糖とミルクを加え、把手のついたカップ、受け皿、スプーンを用いて飲むようになった。この飲み方はイギリスでの紅茶の飲み方と同じである。ヨーロッパではちょうど身分制社会から近代的市民社会への移行期にあり、人々はコーヒーハウスに集まって素面で歓談し、ビジネスの打合わせをし、政治や経済の情報を交換し、重要な社会的出来事について討論した。
 イギリスでは、コーヒーハウスは新聞社、郵便局、株の取引所、保険会社などの機能も持っていた。しかし18世紀半ばになるとコーヒーハウスの持つ社会的機能の多くはそれぞれ独立して分離した。イギリスでは家庭での紅茶の普及からコーヒーハウスは衰退していったが、フランスではカフェは芸術家たちのサロンになるとともに政治談義の場となり、フランス革命の勃発に貢献したといわれ、現在も盛り場で賑わっている。

 ヨーロッパへのコーヒーの供給はずっとモカ経由のアラビア産の輸入に頼ったが、オランダは初めセイロン(現スリランカ)、次にジャワでコーヒーの栽培を始め、19世紀にはジャワ産コーヒーの生産量がアラビア産を凌駕した。ジャワのコーヒーの木はヨーロッパ各地の植物園の温室でも育てられたが、ここから中南米に伝えられた。
 初めオランダ領ギアナに上陸し、各地に広まった。ジャマイカへは1730年に伝わり、ここで日本人好みのブルーマウンテンが生まれた。フランス領ギアナはコーヒーの栽培を独占し、種子や苗木の領外持ち出しを禁止したが、1727年ブラジルの将軍がギアナ総督の夫人を懐柔し、盗みだした苗木をアンデス流域に植えた。ブラジルのコーヒー栽培の中心はその後リオデジャネイロ地区からサンパウロ地区に移り、驚異的に拡大し、19世紀後半にはジャワを抜いて世界のコーヒー生産量の半分をブラジルか生産した。現在もブラジルが全世界生産量の28%を生産して1位であり、ベトナムとコロンビアが続く(2019年)。
 コーヒーは一般に家族的小規模農園で、果樹などの広葉樹の日陰で低密度栽培されている。コーヒー豆は順番に熟していくので機械で集めることはできず、手で集めなければならない。したがって収穫には人手が要る。コーヒーの70%は今でもこのような方法で生産されている。コーヒー生産国は世界銀行やIMFにも輸出増加を促されて、巨額の対外債務を減らす手段として国民にコーヒー栽培を奨励し、その結果、この20年間でコーヒー栽培は急激に増加した。それに伴い栽培法も従来の「日陰栽培」方法から高収量品種を使って化学肥料や殺虫剤を多用する工業生産的栽培方法に切り替えられた。コロンビア、中央アメリカ、メキシコ、カリブ海地域で栽培されているコーヒーの約40%は、開墾された土地で栽培するいわゆる「日なた栽培コーヒー」である。この新しい産業化された栽培システムでは、果実が成熟しているか否かにかかわらず機械で一斉に収穫するため、コーヒーの品質は低下する。しかし、この方法でブラジルでは生産量が増加し、世界第二の生産国ベトナムでも劇的に生産量が増加している。
 さらに1999年、ハワイ大学が遺伝子組み換えコーヒーの新品種に関して特許を得たため、小規模なコーヒー農家と環境に新たな危機が迫っていると不安視する声があがっている。私企業によって開発された遺伝子組み換え品種は、化学物質によって処理が施されるまで果実が成熟しないという特徴をもっている。収量は50%増加し、労力は50%減少するといわれ、コーヒー栽培のさらなる工業化は避けられない。
 コーヒーはすでに消費量より8%以上も過剰生産されている。このため農家に支払われる価格が劇的に下落している。Oxfamによれば、農家が得る金額は1960年代に比べ4分の1になり、2002年には、コーヒーの値段は30年前よりも安くなった。過剰生産により価格は暴落し、コーヒー焙煎業者は買付価格を低く抑えて大きな利益を得たが、栽培者にとってはたいへんな打撃である。多くの人は食料や日用品を買うこともままならず、家を手放さざるを得ないほどの状況に陥っている。
Oxfamは、世界90カ国以上で貧困を克服しようとする人々を支援し、貧困を生み   出す状況を変えるために活動する国際協力団体
 現在コーヒーは全世界で常用の飲み物となり、イギリスのような愛茶国でもコーヒーの消費量が茶の消費量よりも多くなっている。わが国も然りである。コーヒーの主要な産地は中南米、アフリカ、中近東と東南アジアで、それぞれ味と香りが異なる。異なった産地の豆をブレンドし、好みの風味を楽しむ飲み方がヨーロッパで確立された。国によって特徴的な飲み方がある。フランスでは多量の牛乳と混ぜたカフエーオーレを朝食に多量に飲む。アメリカでは禁酒法の余波でコーヒーの消費量が大幅に増えたが、浅く煎ったコーヒー豆からの「アメリカン」を以前は日に何杯も飮んだ。このほかイタリアのエスプレッソ、オーストリアのウインナコーヒーなどがわが国にもよく知られている。インスタントコーヒーは1900年在米の日本人化学者加藤博士が発明した。現在スプレイドライ法かフリーズドライ法で生産され、世界各国で日常的に重宝されている。

 日本には18世紀に長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれている。しかし日本人の嗜好には合わずあまり普及しなかった。文化元(1804)年、長崎奉行所の支配勘定方の大田南畝がオランダ船の検分の際にコーヒーを供され、「焦げくさくて味わうに堪えず」と記している。明治以後も日本ではコーヒーはなかなか普及しなかったが、大正から昭和にかけ大都市に喫茶店が出現すると、だんだんと庶民に受げ入れられるようになった。しかしコーヒーはずっと家庭外で飲む飲み物であり、第二次世界大戦後も喫茶店を通じてさらに普及した。昭和30年代後半にインスタントコーヒーが市販されると、コーヒーは家庭内でも飲まれるようになった。さらに昭和50年代からサイフォンや濾紙によって、市販の煎ったコーヒー豆粉から簡便に好みのレギュラーコーヒーが家庭で調製できるようになる。

 ここで一休み。コーヒーでも飲みましょう。