チャノキ(茶の木)


 
イギリスの茶貿易はアメリカ独立戦争やアヘン戦争の引き金となった

・原産地は、四川・雲南か、中国東部から東南部にかけてか、いずれも原産地であるという二元説か
・栽培されているのは中国種とアッサム種の2種
中国種はカテキン含有量少なく、酵素の活性弱く酸化発酵しにくいことから、緑茶向き。
アッサム種はカテキン含有量多く、酵素の活性強く発酵しやすいことから、紅茶向き。
・1610年、オランダが平戸から茶を持ち帰った。ヨーロッパで当初飲まれたのは日本の緑茶であった
・1640年、イギリスでティールームが開業。イギリス国民に喫茶の習慣が浸透していく
・18世紀半ばには、アフタヌーン・ティーの習慣が定着。この頃から、緑茶より紅茶が 優勢になる
・茶貿易、オランダからイギリス東インド会社が主導権を握る。中国茶が主役となる
・18世紀、イギリスの高関税に対抗して密輸が横行
・アメリカのイギリス植民地、茶税法に反発してボストン茶会事件勃発。これがアメリカ 独立戦争の引き金になる
・1823年、アッサムチャを発見。スリランカやインドで茶の大規模商業生産が始まった
・茶貿易の増大→イギリスの銀流出→茶の代金にアヘンを売る→アヘン戦争


 ツバキ科ツバキ属の常緑樹。茶の原産地については、四川・雲南説(長江及びメコン川上流)、中国東部から東南部にかけてとの説、いずれも原産地であるという二元説がある。 中国で喫茶の風習が始まったのは古く、その時期は不明である。原産地に近い四川地方で最も早く普及し、長江沿いに、茶樹栽培に適した江南地方に広がったと考えられる。
 栽培されているのは中国種とアッサム種の2種である。中国種は比較的カテキン含有量が少なく、酵素の活性も弱く酸化発酵しにくいことから、一般に緑茶向きとされている。アッサム種はカテキン含有量が多く、酵素の活性が強く発酵しやすいことから、紅茶向きとされている。

ヨーロッパに茶がもたらされたのは、1609年、オランダが日本の平戸に商館を設け、翌年、日本の茶がジャワ経由でヨーロッパに輸出されてからである。そのため、ヨーロッパで当初飲まれたのは日本の緑茶であった。
イギリスでは1640年に初めてティールームが開業され、徐々に浸透していった。清教徒革命の後にオリバー・クロムウェルがイングランド共和国の実権を握った時、そのころ流行り始めていた茶に特別な課税をすることを思いつき実行した。この課税がイギリスの国民性とクロムウェルへの反抗心に作用し、密輸品の茶を飲むことがブームとなった。聖職者が密輸業に加担していたことが茶の普及に拍車をかけた。クロムウェルの時代が終わったとき、イギリス国民に喫茶の習慣が確立していた。
18世紀半ばには、「午後の茶」(アフタヌーン・ティー)の習慣が定着した。同じ頃、緑茶よりも抽出が簡単でヨーロッパに多い硬水にあう紅茶が優勢となった。
茶貿易もオランダではなくイギリスが主導権をとり、中国産の茶がヨーロッパで主役となった。中国貿易を独占していたのがイギリス東インド会社であった。

18世紀における茶貿易の増大は密輸を横行させていた。高い輸入関税に問題があった。輸入関税が高かったのは、フランスとの紛争に対処する戦費の一財源として、イギリス政府は茶に、従来の64パーセントから一挙に119パーセントに及ぶ高い関税をかけていたからである。正規の輸入とほぼ同額の茶が密輸されていたといわれるほど、当時密輸は大量にのぼっていた。
 イギリス政府は、密輸を防ぐために、輸入関税を引き下げる処置をとった。1748年、政府は一挙に119パーセントから12.5パーセントへという大幅な関税引下げを断行した。これで密輸のかなりの部分は防げた。
 アメリカのイギリス植民地でも、中国産の茶が飲まれていたが、イギリス本国政府は、1773年、茶法(茶税法)を制定し、本国における税収減をカバーしようとした。しかしこれがアメリカ市民の反発を招き、同年ボストン茶会事件が起こり、アメリカ独立戦争(1775年4月19日から1783年9月3日)につながった。この時代に茶法の反対運動が激化し、不買運動にまでつながった。代わってアメリカではコーヒーを飲む文化が広まることになった。

ぼぼ2世紀もの間ヨーロッパ人は中国のどこでチャが栽培されているのか知らなかった。交易は注意深く制限され、外国人が主たる港の広東を越えて奥地に入ることはほとんど許されなかったからである。
そのような状況下、イギリスの貿易業者が中国から茶生産の権利を奪うのに失敗したため、自分たちで茶を作ろうと中国から種子や苗を持ち帰り、インドで茶の栽培を始めた。
こうして1818年にはインドで最初の試験栽培が始まった。
 1823年、アッサムチャがインド北部のアッサム地方に野生しているのをイギリス東インド会社の二人の従業員が発見した。この重大な発見をきっかけに、今では世界最大の輸出国となったスリランカ(労働者の20人に1人が紅茶産業に従事)やインドで茶の大規模商業生産が始まったのである。

18世紀末には、ますまする茶貿易が増大し、イギリス政府は銀の流出問題に直面した。
イギリスが中国から購入する茶に対して、見返り品として適当なものがなく、その決済手段として銀を持ち出さればならなかったことである。茶の輸入増加とともに大量の銀が流出し、銀不足がひどくなってきた。銀の流出を避け、銀に代るものを何に見出すかが早急の課題となった。
イギリスの産業革命によって大量に工場生産された安価な綿織物は、国内では消費しきれずに、植民地であったインドに輸出された。そして、ついにはインドの伝統的な織物業を壊滅させてしまうのである。
 イギリスは、主産業が壊滅したインドで麻薬の原料となるケシを栽培する。そして、ケシから作りだした麻薬のアヘンを清国商人に売ったのである。
 こうしてイギリスは、インドで生産したアヘンを清国に売り、自国で生産した綿製品をインドに売ることで、チャを購入することで流出した銀を回収するという三角貿易を作りだしたのである。
これによって、中国のアヘン輸入が増大し、逆に銀がイギリスに流出するようになった。また、中国にアヘン中毒が蔓延したため、中国政府はアヘン取り締まりを強化した。これによって、イギリスとの間で、摩擦が激しくなり、1840年、ついにイギリスと清国との間でアヘン戦争が勃発するのである。
 この戦争で、眠れる獅子と恐れられた清国は、イギリス軍の前にあっけなく敗れてしまう。そして、国力を失った清国は、不平等条約のもとで半植民地状態にされてしまうのである。