4月から5月、郊外に行くと、山野や林縁の木々の樹冠を覆うように咲く薄紫色の花を目にする。フジの花である。フジは古来から人々に愛されてきた花である。 フジは「万葉集」の中で26首が歌われている。万葉集の植物では7番目に多い。そして、その内16首で「藤浪」と表現している。フジは満開期には60㎝以上にもなる総状花序をつけ、これが風になびく様が波のように見えるからである。 藤波の花は盛りになりにけり平城(なら)の京(みやこ)を思ほすや君 (大伴四綱 巻3-330) (藤の花は波を打つように盛りになりましたね。奈良の京が恋しく思われますか、君) フジは、マメ科フジ属の蔓性落葉木本である。フジ属は日本、中国、北アメリカに合わせて6種あり、そのうち日本に2種自生する。ノダフジとヤマフジで、いずれも日本の固有種である。フジとだけいえば、普通ノダフジを指している。 別名ノダフジ(野田藤)は摂津国野田村(現在は大阪市福島区)の地名に由来する。 ここは藤の名所で、牧野富太郎によってノダフジ(野田藤)と命名された。 室町時代の二代将軍足利義詮(あしかが よしあきら)が住吉詣の途中に、この地で藤を鑑賞したといわれている。そのときに詠まれた歌が、野田村の玉川に鎮座する春日神社に、『野田の藤跡碑』として刻まれており、「むらさきの雲とやいはむ藤の花 野にも山にもはいぞかかれる」。 その後、玉川の藤は「吉野の桜、高尾のもみじ、野田の藤」と言われるほどフジの名所であった。『摂津名所図会』によれば、江戸時代には茶店など出て賑わったと書かれている。その後、明治以降の急激な都市化や、第二次大戦での被災、1950年のジェーン台風でこの地の野田藤は壊滅状態になった。近年、地元の人々によって野田藤の名所の復活が図られている。 フジは本州・四国・九州の温帯から暖帯に、低山地や平地の林に分布する。茎は生長が早く長く伸び、他物に上から見て右巻きに巻きつく。茎は最初草質で、のちに木質化して直径十数センチメートルに達する。葉は9~19枚の奇数小葉をつける羽状複葉となり、小葉は長さ4~10㎝の先がとがった卵形。若葉の裏には細毛があるが、やがて落ちる。四~五月、長く垂れ下る総状花序を伸ばし、蝶形花を多数つける。花序はふつう20~50㎝。花色は紫色、園芸種では白色や淡紅色のものもある。果実は扁平で細長く、長さ15~30㎝。果皮は細毛が密生し、木質で堅い。冬に二片にはじけ、丸く扁平な種子が飛び散る。 種子は褐色。 ヤマフジは本州の中部以西(近畿以西とするものもある)・四国・九州の低山地や平地の林に分布する。茎は他の木に巻きついて大きく成長する。蔓はフジとは逆の左巻き。葉は9~13枚の奇数小葉をつける羽状複葉となり、小葉は長さ4~6㎝の先がとがった卵形。若葉の裏にある細毛は成葉になっても落ちない。四~五月、花序は長さ10~20㎝とフジより短い。花は20 - 30ミリメートルの蝶形花で、フジに比べてひとまわり大きい。花色は紫でフジより色が濃く、芳香がある。果期は9 - 10月。果実は豆果で、長さ15~20㎝になる。種子は黒褐色。 フジは他のつる性植物と同じ様に民具の素材とされてきた。蔓は繊維が丈夫で、これを編んで椅子や籠を作ることが行われ、また繊維を取って布や紐の材料に利用されても来た。 「古事記」の『応神天皇紀』にこのような話がある。新羅から渡来したアメノヒボコがもたらした八種の神宝が但馬の出石で神になり、娘の伊豆志哀音売(イヅシオトメ)が生まれた。美しく成長した娘に神々やあまたの男性が言い寄っては断られた。秋山下氷壮夫(アキヤマノシタヒオトコ)もその一人、自信たっぷりだったが拒絶され、弟の春山霞壮夫(ハルヤマノカスミオトコ)をけしかける。 「もし、伊豆志哀音売と一緒になれたら、衣服を与え、酒を飲ませ、山河で採れたご馳走を食べさせてやろう」と約束した。弟は二つ返事で承知するが、自信はない。そこで母に相談したところ、母は弟に策を授け、一夜のうちにフジづるで上衣、袴、足袋や沓を作り、フジづるの弓矢を持たせ、伊豆志哀音売のもとに行かせる。春山霞壮夫が伊豆志哀音売の家に着くと、何と装束や弓矢からフジの花が開く。その弓矢を便所に立てかけておいたら、伊豆志哀音売が不思議に思い、戸を開け、取り入れようとした際、春山霊壮夫も一緒に入りこみ、首尾よく結ばれる。 この話から、フジの繊維から布を織り、この藤布から衣服や足袋、沓まで作ったという。 藤布は樹皮をはぎ、表皮を除いた内皮をわら灰で半日ほど煮て、清流でさらし、ドロドロをしごいて繊維をとり、織った。丈夫で、野良着や運搬袋、豆腐のこし袋、せいろの中敷布などに用いられた。 『万葉集』にも、繊維植物としてのフジを詠んだ歌が1首ある。 須磨の海女の塩焼き衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず (巻3.413 大網公人) (須磨(すま)の海女(あま)の塩(しほ)焼き作業に着る藤衣(ふじころも)は織目が粗いので、まだ着慣れないです) フジの蔓で編んだ衣は折り目が荒く粗末なものだったようだ。藤衣は主に庶民が用いるもので、江戸時代までは仕事着に用いられた。ただし平安時代の貴族では喪服の時のみ藤衣を着用したという。 丈夫なつるは古代より縄のとして用いた。『肥前国風土記』に、ヤマトタケルノミコトが船のともづなを太いフジにつないだとする伝説が記されている。 現在でも長野県の諏訪神社の御柱祭では約8トンもある柱を曳くのにフジの蔓そのもを縒り合わせて直径30㎝程の曳き綱を2本作って何キロも運んでいる。 万葉の時代には観賞用として利用され、すでにフジが栽培されていたことがうかがえる。 恋しけば 形見にせむと わが屋戸に 植ゑし藤浪 いま咲きにけり (山部赤人 巻8-1471) (恋しかったなら形見にして眺めようと、私の家に植えた藤の花が、今咲いている) 平安時代になると観賞の対象としてきわ めて高い位置に置かれるようになる。平安貴族たちの「藤見の宴」も盛んに行われた。平城京の飛香舎の庭にはフジが植えられ藤壺とも呼ばれた。その主ともいえる中宮藤原彰子に仕えた紫式部は『源氏物語』を記し、光源氏の理想の女性として藤壺を登場させる。藤の花の宴は、宮中以外でも開かれた。『宇津保物語』(10世紀後半)には紀伊長者が藤井の宮で、『伊勢物語』(9世紀末~10世紀初頭)には在原行平(818-93年)が自宅で開いたことが載る。 生け花として観賞されていた例としては、すでに『伊勢物語』に現われている。「瓶に花をさせり、その花のなかにあやしき藤の色ありけり、花のしなひ三尺六寸ばかりなむありける」(角一段)。この頃すでに長い房のフジが存在していたこともこの記事から分かる。 |