クリ(栗)


   
 静かな静かな 里の秋
 お背戸に木の実の 落ちる夜は
 ああ母さんとただ二人
 栗の実煮てます 囲炉裏端

斎藤信夫が作詞したは「里の秋」である。彼は小学校の教諭として戦争を鼓舞してきたことを、終戦後に反省し教師を辞めて童謡作詞家になった。童謡「里の秋」は終戦直後に発表されたものである。

 クリは秋の味覚である。栗きんとん、栗まんじゅう、栗羊羹、栗おこわ飯、洋菓子ではマロングラッセにモンブラン。シンプルに焼き栗や茹で栗も美味しい。
 秋にヨーロッパに行くと、町の広場やメインストリートの片隅で、栗を焼く屋台が出る。買い求めると、一つかみほどを紙袋に入れてくれる。熱々の栗の鬼皮をむく。鬼皮ははじけて割れているので剥きやすい。渋皮も焦げていて簡単に剥ける。小粒な栗の実を口に放り込む。ホロッとした甘さとともに、口中で砕けていく。

 クリは、ブナ科クリ属の落葉性高木である。高さは15mほどになる。北半球の温帯に広く分布し、日本種、中国種、アメリカ種、イタリア種などがそれぞれの地方で自生し、そして栽培されてきている。日本では、北海道西南部から本州、四国、九州の屋久島まで分布する。北海道では、石狩低地帯付近まであるが、それより北東部は激減する。

 クリの山野に自生する原種は、シバグリ(柴栗)またはヤマグリ(山栗)と呼ばれ、栽培種よりも堅果は小さいが、甘味が強く、非常に濃厚な味わいがある。栽培品種オオグリ(大栗)は、野生種から改良されたものである。

 和名クリの語源は諸説あり、食料として古くから栽培され、果実が黒褐色になるので「黒実(くろみ)」になり、これが転じて「クリ」と呼ばれるようになったという説、樹皮や殻が栗色というところから樹名になったという説、クリとはそもそも石という意味で、実の硬い殻をクリと呼んだという説などがある。野生種はヤマグリ(山栗)と呼ばれ、果実が小さいことからシバグリ(柴栗)とも呼ばれる。中国植物名は栗(りつ)。中国のシバグリが、甘栗(天津甘栗)として市販される栗である。

 英語名のチェストナッツ(Chestnut)は、いがの中の果実がいくつかに分かれている様子から、部屋の意味の Chest から命名されている。学名のクリ属を表すラテン語のカスタネア(Castanea)は、実の形から樽を意味するカスクに由来する。日本の栗は、学名でカスタネア・クレナータ(Castanea crenata)と呼ばれる種で、クリ属の中でいわゆる日本種の中心をなすものである。

 クリは雌雄同株で、6月を前後する頃に開花する。雄花は長さ10 - 20 cmの紐のような穂状で、斜めに立ち上がりながら先は垂れ、全体にクリーム色を帯びた白色である。雄花の付け根に小さな雌花がつく。クリの雄花の匂いは独特で、ザーメンのような生臭さを持ち、香りも強く、あたり一帯に発散している。この匂いでハエや甲虫を呼び寄せている。一般に雌花は3個の子房を含み、受精した子房のみが肥大して果実となり、受精しなかったものは粃(しいな: 殻ばかりで中身がない)となる。
 秋(9 - 10月頃)に実が茶色に成熟すると、いがのある殻斗が4つに割れて、中から堅い果実(堅果であり種子ではない)が1個から3個ずつ現れる。

従来、旧石器時代は狩猟、新石器時代は狩猟と採集の社会と考えられていた。しかし、新石器時代である縄文時代の発掘調査が進むにつれ、すでに栽培が始まっていたことが明らかになってきた。氷河時代が終わりに近づきつつあった約15,000年前頃、地球環境は急激に温暖化していった。それまでの寒冷〜冷涼な気候下で東アジアは亜寒帯性〜冷温帯性の針葉樹の林が拡がっていたが、この温暖化で冷温帯性の落葉広葉樹林に急速に置き換わっていった。この新しい森の主役はドングリを実らせるナラ類で、その森にはクリも混じっていた。
 クリは、新石器時代の東アジアの主要なデンプン供給源であった。クリ以外にも、さまざまなドングリなどの堅果が広く利用されていた。ただし、クリはアク抜きの必要が無いが、堅果類の多くはサポニン、タンニンなど、ヒトにとっては毒性のある物質(アク)を含み、そのアクを除去する、いわゆる「あく抜き」が必要である。
 日本において、クリは縄文時代初期から食用に利用されていた。長野県上松町のお宮の裏森遺跡の竪穴式住居跡からは1万2900年前~1万2700年前のクリが出土し、乾燥用の可能性がある穴が開けられた実もあった。縄文時代のクリは静岡県沼津市の遺跡でも見つかっているほか、青森県の三内丸山遺跡から出土したクリの実のDNA分析により、遺伝子が野生とは思えないほど均質であったことから、縄文時代には既にクリが栽培されていたことがわかっている。
 西日本はイチイガシ(ドングリ)の文化圏、東日本はクリの文化圏だった。縄文時代は西日本より、東日本のほうが発展していた。
クリは自然界においては、クリだけの林、いわゆる純林というものは存在しない。しかし、上記の遺跡の周辺にはクリの純林の痕跡が見つかっており、これは人為的に植えたものであり、クリを栽培していたことが分かった。
 クリは食用にしただけではなく、建築材や燃料としても利用している。三内丸山遺跡からは直径約1mもある6本のクリの柱が出土し、巨大神殿が建てられていたのではと話題になった。これほど太いクリは特別なもので、通常は直径10cmほどのクリの木を伐っていたようだ。クリは水に強く、重くて堅いので建築材に適していた。しかも、クリは他の材に比べて伐りやすく、また石斧でも10分ほどで伐れたようだ。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることが、遺跡出土の遺物から分かっている。触感は松に似ているが、松より堅く年輪もはっきりしている。強度が高いのが特長だが堅いため加工は難しくなる。楢よりは柔らかい。

結局、東日本の縄文人は食糧がイネに取って代わるまでのなんと1万年もの間、クリを主食に頼っていた。

 クリといえば丹波栗が有名だ。丹波地方は、5世紀頃、朝鮮を逃れて帰化した楽浪漢人である丹波氏らの末裔が入植・開墾した地といわれる。大和朝廷(持統天皇の時代)がこうした帰化人集団を利用してクリの栽培を奨励した。もともとはあまり米の取れる地方ではないから、米に代わるものとしてクリの栽培が盛んになった。
平安時代中期に編纂された『延喜式』では、すでに丹波はクリの産地として紹介されている。