ナデシコ(撫子、瞿麦)


  ナデシコ

 ナデシコはナデシコ科ナデシコ属の植物の総称で、その多くは多年草で、北半球の温帯域を中心に300種ほどが分布する。比較的乾燥した環境を好み、わが国にはカワラナデシコ、エゾノカワラナデシコ、シナノナデシコ、フジナデシコ、ヒメハマナデシコなどが自生している。このうち、シナノナデシコとヒメハマナデシコは日本固有種である。
 カワラナデシコが最も一般的で、単にナデシコと言う場合、カワラナデシコを指している。奈良時代か平安時代に中国原産のカラナデシコ(石竹)が渡来し、もてはやされたが、このカラナデシコ(石竹)に対してカワラナデシコをヤマトナデシコとも呼ぶようになった。
カワラナデシコは北海道渡島半島以南の日本列島、台湾、中国東部、朝鮮半島の暖帯から温帯域の山野や河原に自生する。高さ50cmほど。葉は緑白色を帯び、先のとがった広線形。対生で、基部は連なって茎を抱く。夏から秋に、茎の上部で分枝し、縁が細裂した径3-4cmの淡紅紫色、まれに白色の五弁花を付ける。雄しべが10本、雌しべが1本で、雌しべの柱頭は二つに分かれる。萼は長さ3cmの筒状。果実は円筒形で中に黒く扁平な種子を生じる。

 漢方では種子を瞿麦子(くばくし)と呼び、利尿、通経剤などとする。量を越すと流産を誘発するともしているが、その成分についてはよく分かっていない。
 利尿剤とする場合は、これに熱湯を注ぎお茶がわりに飲む。

 わが国の文献でナデシコの名が最初に見られるのは「出雲国風上記」(733)で、ナデシコは仁多郡(島根県)の諸山野に生える薬用草木の一つとして記されている。
 古典和歌に多く詠まれ、「万葉集」には26首を数える。その大半が奈良朝に入ってから詠まれたもので、とくに大伴家持の歌が11首ときわめて多い。家持はナデシコをこよなく愛したといわれ、「我がやどに播きし瞿麦いつしかも花に咲きなむなそへつつ見む」(我が庭先に播いたナデシコはいつになったら花咲くのだろう。あなたと較べながらみたい)(巻8・1448)のように、種子を播いて栽培したことがうかがえる歌もある。実に26首の万葉集の歌の内、半分の13首が庭で育てているナデシコである。「野辺見れば撫子の花咲きにけりわが待つ秋は近づくらしも」(野辺を見ると撫子が咲いている。私の待っている秋が近づいたらしい) (読み人知らず 巻10.1972)。この歌のように野辺のナデシコを歌ったのは4首しかない。この時代にナデシコが愛好されたのは漢詩文や大陸文化の影響が大きいと考えられ、ナデシコは「石竹」「瞿麦」と漢名で表記されている。このことから庭で栽培した撫子は中国から渡来したカラナデシコ(石竹)と考えられる。また「万葉集」では景物として詠まれるほか、恋の相手になぞらえる例が多く見られる。
 平安時代になると、「撫子」という表記が一般的になったことを背景に、ナデシコは愛児の比喩として使われるようになる。「枕草子」に「草の花は撫子、唐のはさらなり、大和のも、いとめでたし」とあることからも、そのようすがうかがえる。「大和撫子」は日本女性の清楚な美しさのたとえともされるが。これは大伴家持の歌「うるはしみ我が思ふ君はなでしこが花になそへて兒れど飽かぬかも」(万葉集巻20・4451)にすでに見ることができる。
カワラナデシコは夏の間咲いていることから常夏(とこなつ)の別名もあり、「源氏物語」では頭の中将の愛した女性の名前であり、後に光源氏が愛した夕顔である。源順(みなもとのしたごう)の『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう:931年 - 938年)にはナデシコの別名として常夏が記載されている。