コショウ(胡椒)

   コショウ(胡椒)は最も高価な香辛料

 コショウ(Pepper)は、古代からインド地方の主要な輸出品だった。紀元前5~4世紀のギリシア人も、胡椒の効用を知っていた。だが、西洋で本格的な胡椒取引を始めたのはローマ人であった。
ローマ人はすでに1世紀にはインドの西岸沿いの港々で胡椒を取引していた。ローマの船が紅海からインド洋を渡ってインドに到達するまで、わずか40日しかかからなかったという。
 コショウは、ピペリンによる抗菌・防腐・防虫作用が知られており、冷蔵技術が未発達であった中世においては、料理に欠かすことのできないものでもあり、大航海時代に食料を長期保存するためのものとして極めて珍重された。ヨーロッパの様々な料理に使われており、またその影響を受けた様々な料理でも使われている。このため、インドへの航路が見つかるまでは、ヨーロッパでは非常に重宝されていた。十字軍、大航海時代などの目的のひとつが胡椒であったという見方もある。その取引における高値のさまは、1世紀のローマにおいて、金や銀と胡椒が同重量で交換されたかのような表現もされ、 中世ヨーロッパにおいては、香辛料の中で最も高価であり、貨幣の代用として用いられたりもした。輸入をしていたヴェネチアの人々は胡椒をさして「天国の種子」と呼び、価値を高めることもしていたという。
 ゲルマン部族のリーダー(西ゴート族の王)であったアラリック1世にローマが包囲された際、市民は包囲を解く代償として金5千ポンド、銀3万ポンド、絹のチュニック4千着、緋色に染めた皮革3千枚、そしてコショウ3千ポンドを渡すことに同意した。
インドからイスラム教徒が支配している土地と海域を通り、2年もかかってヨーロッパに着いたときには、途中で少なくとも15回は税金を取られるために、出発地インドでの価格の1000倍に跳ね上かってしまい、コショウは同じ重量の銀と交換されるほどの貴重品であった。イスラム教徒が支配していない地域を通って、インドの香辛料、なかでもコショウを手に入れることは長い間ヨーロッパの夢であった。
ヨーロッパ人として初めてインドへ船で渡ったのはポルトガル人であった。ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を周回してインド洋を横切るという偉業を成し遂げた15世紀末のことである。その後100年にわたってポルトガルはインドやアジアで胡椒貿易を支配しようとした。ポルトガルが失敗すると、オランダやイギリスが同じことをしようとした。17~18世紀にかけてのことだ。黒胡椒の歴史と切っても切れないのは、イギリス東インド会社とオランダ東インド会社という二つの会社である。コショウはまた、アヘン貿易を生んだ。インドのマラバル地方産のコショウの代金を、最初にこの麻薬で支払ったのはオランダ人である。北ヨーロッパの二つの貿易会社の競争はアジアのコショウ貿易港のほぼすべてに、とりわけインドネシアのジャワ島やスマトラ島に浸透し、アジアにすでに存在していた貿易関係をいっそう深めていった。アジア域内交易、いわゆる「地域貿易」は、オランダ東インド会社にとってとくに重要であった。

 中国では西方から伝来した香辛料という意味で、胡椒と呼ばれた(胡はイラク系のソグド人を中心に中国から見て西方・北方の異民族を指す字であり、椒はカホクザンショウを中心にサンショウ属の香辛料を指す字である)。日本には中国を経て伝来しており、そのため日本でもコショウ(胡椒)と呼ばれる。天平勝宝8歳(756)、聖武天皇の77日忌にその遺品が東大寺に献納された。その献納品の目録『東大寺献物帳』の中にコショウが記載されている。当時の日本ではコショウは生薬として用いられていた。コショウはその後も断続的に輸入され、平安時代には調味料として利用されるようになった。
 唐辛子が伝来する以前には、山椒と並ぶ香辛料として現在より多くの料理で利用されており、うどんの薬味としても用いられていた。