食中毒の頻度が高い 2022年7月21日、長野県千曲市の小学校で授業中に食べたジャガイモによる食中毒が発生した。学校で栽培したジャガイモを、教職員が皮付きのまま茹で、児童と教職員あわせて98人が食べ、このうち教職員2人を含む45人に吐き気や腹痛、嘔吐などの症状があった。 これまでも小学校で栽培されていたジャガイモを調理して食べて食中毒を起こす事故が何例か報告されている。厚生省の自然毒リスクプロファイルによれば、 ①2006 年 7 月、東京都 江戸川区内の小学校で、6 年生の児童 75 名と教職員 2 名。 ②2009 年7 月 、奈良市の市立小学校の 6 年生35 人。 の2例が記載されている。 また、過去10年の有毒植物による食中毒発生状況(平成24年~令和3年)によれば、 ジャガイモを食べて食中毒になった人が280人おり、ジャガイモは、もっとも食中毒の頻度が高い植物となっている。 ジャガイモの毒成分はソラニンという物質で、ジャガイモの発芽部分や日光に当たって緑色に変色した皮の部分に含まれている。ソラニンを含んだ未成熟の小さなジャガイモや、成熟していてもジャガイモの芽や緑色の皮を食べると嘔吐などの症状が起こり、子供は大人に比べると微量でも発症するといわれている。 アイルランドの運命を変えた作物 ジャガイモは、ナス科ナス属の多年草で、デンプンが多く蓄えられている地下茎が芋の一種として食用とされる。ジャガイモの価値は高い。カロリーに対する蛋白質のバランス、ミネラルとビタミンの含有量は単一食物としては卵の次に高い。単位面積当たりの収穫量は作物の中では断然トップだし、一日1ヘクタール単位(1ヘクタール単位の収量を栽培日数で割ったもの)もトップである。発展途上国の平均でジャガイモはヘクタール当たり9.4トン穫れるが、稲は1.9トン、トウモロコシは1.4トン、サツマイモでも7.4トンだ。ジャガイモは小麦、トウモロコシ、稲についで世界で四番目に収穫量の多い作物であり、トウモロコシについで世界で二番目に多くの国で生産されている作物でもある。 ジャガイモは南米アンデス中南部のペルー南部に位置するチチカカ湖畔が発祥とされる。標高4000m前後もあるアンデス高原で紀元前3000年までにはジャガイモが栽培されるようになった。 野生のジャガイモは小指の頭ほどのイモしか実らせなかったが、アンデス高地の先住民たちは長い年月をかけて品種を改良して、色や大きさ、味や栽培条件の異なるさまざまな品種のジャガイモを生み出してきた。ジャガイモはこの地域の人びとのエネルギー源となって、穀物の栽培が望めないアンデス高地に、ティワナク文明やインカ文明という高度に発達した文明を出現させる原動力となったのである。 このジャガイモがヨーロッパ大陸に伝えられたのは、インカ帝国の時代、15世紀から16世紀頃とされている。スペイン人がジャガイモを本国に持ち帰ったのは1570年頃で、さらに1600年頃になるとスペインからヨーロッパ諸国に伝播するが、食料としては普及しなかった。この時代、ジャガイモについての最大の偏見は、ジャガイモのような食べ物について、聖書には何も書かれていないという点であり、当時のヨーロッパ社会を支配していた価値観の根本は、聖書を原典とするキリスト教の教義であった。16世紀後半のジャガイモは食料としての評価が低く、むしろエキゾチックで珍しい観賞用の花として、またイモは「結核の回復や催淫剤としての薬効が期待される薬用植物」と評価されていた。その一方、食べ物としては、「栄養のまったくない、ブタの食べ物」とか、「味が淡白でイヌさえ食べない」とまで酷評されていた。 普及は、プロイセン王国で三十年戦争により荒廃し、飢饉が頻発した際に作付け(栽培)がフリードリッヒ2世王の勅命により強制、奨励されたことや、戦争で踏み荒らされると収穫が著しく減少するムギに代わり、地下に実るため踏み荒らしの影響を受け難い作物として、農民に容易に受け入れられた結果である。フリードリッヒ2世王が即位した頃には8万人であったプロイセン軍の兵力は、13年後の1753年には70パーセントも増加して、13万5000人にまで膨らんでいた。 ジャガイモはヨーロッパ中に普及していった。 ジャガイモがムギ類の不足分を補う形で食卓に上るようになると、それまで常に飢餓におびえていた人々も、十分なエネルギーを摂取できるようになった。食料が十分にあれば、当然のことながら人口は増え、人口が増えれば国力も増強してゆく。また、食料が十分に供給される都市には多くの人びとが集まってくるようになり、新しい思想や発明発見が登場して、文明は発展していく。産業革命を達成して、ヨーロッパ社会が急速な発展を遂げた背景には、食料としてのジャガイモの存在があったことを忘れてはならない。 アイルランドは永らくイギリスの支配下にあった。その当時、土地の大部分はイングランド在住の地主が所有して、輸出用作物の栽培や家畜の牧草地として使っていたため、ほとんどのアイルランド人は自分の土地を持つことができなかった。彼らは地主の農場で何週間かの労働を提供する代償として土地の一部を使わせてもらうか、あるいは土地を借りて自家用の食料を栽培するしかなく、絶えず食料不足に悩まされる厳しい生活を余儀なくされていた。 ジャガイモが普及すると、他国の例に漏れず、アイルランドでも食料事情は一変した。 1エー力ー(約4000平方メートル)の土地があれば4万ポンド(約18トン)のジャガイモを収穫でき、一家10人の大家族であっても、食料不足に見舞われることはなくなった。18世紀末のアイルランドでは、ジャガイモへの依存度はきわめて高くなっていた。食料が十分に供給されるようになれば、当然のことながらアイルランドでも人口が増えてくる。1754年には320万人であった人口は、1845年には820万人となり、わずか90年の間に人口は2倍半に増加していた。 しかし、1845年から1849年の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し、壊滅的な被害を受けた。ジャガイモを主食としていた被支配層のアイルランド人の間からは、ジャガイモ飢饉で100万人以上ともいわれる多数の餓死者を出した。また、イギリス、北アメリカ、オーストラリアなどへ、計200万人以上が移住したといわれる。アメリカ合衆国に渡ったアイルランド人移民はアメリカ社会で大きなグループを形成し、経済界や特に政治の世界で大きな影響力を持つようになった。この時代のアメリカへの移民の中には、35代のケネディ大統領、40代のレーガン大統領、42代のクリントン大統領の先祖も含まれていた。 ジャガイモの疫病はヨーロッパだけではなく、原産地のアンデス地域でも何度か発生している。しかし、全滅のような危機に至らないのはアンデス地域では数十種類にも及ぶジャガイモを栽培しているため、疫病に強いジャガイモには被害がないためである。ヨーロッパで大被害となったのは単一種に頼っていたためとされる。 |