サツマイモ(薩摩芋)


   
 
            サツマイモの花
 サツマイモ(ヒルガオ科サツマイモ属)はアサガオに近縁の熱帯蔓植物の塊茎で、おそらくメキシコ南部からベネズエラにかけてが原産地である。野生種は多分紀元前8000年には早くも食べられており。その証拠がぺルーの遺跡発掘現場で発見されている。現代のサツマイモには多量の澱粉といくらかの糖分が含まれているが、原種は甘いというより繊維質だった。しかしコロンブスが新大陸を発見するよりも前の時代に、メキシコを経て北米南部とカリブ海の島々に、さらに驚くべきことにはポリネシア(太平洋の島々)やオーストラリア、ニュージーランドにまで非常に広範囲に広まっていた。
 おそらく2000年も前にサツマイモが後者の地域にどのように広まったのかに関しては、さまざまに推測されている。塊茎はこれらの場所に流れ着くまで海水の中で生き延びることはできないので、古代ポリネシア人は南米までの航海を行っていたのではないかと推測されている。もっとも鳥が種子を運んだ可能性もある。どのような経緯にせよ、ヨーロッ      サツマイモの花      パ人が到達するよりずっと前にポリネシアで育っていた。また多分驚いたことに、ジャガイモよりヨーロッパでは先に支持され、スペインやポルトガルの船がそれをアフリカやアジアに広めるより先に、地中海地方で栽培され食べられた。西アフリカと多くのオセアニアの島では、ヤムイモと主食の座を争い始めた。サツマイモはジャガイモ同様多くの方法で、そして甘い料理にもちいられている。アフリカの多くの地域、インド、米国南部でも栽培されてはいるが、フィリピンを通して16世紀の末にサツマイモが導入された中国は、現在世界最大の生産国かつ消費国である。

日本には、1597年に宮古島に入ったのが最初と言われている。琉球へは福建から1605年に入って栽培され始め、1609年以降薩摩の領有支配に伴って薩摩へと伝わり、主に九州地方で栽培されるようになった。以後鹿児島を経て急速に西日本に普及した。1732年、享保の大飢饉により瀬戸内地方を中心に西日本が大凶作に見舞われ、深刻な食料不足に陥った。しかしサツマイモ栽培地では餓死者が全く出なかった。さらに江戸時代初~中期のたび重なる飢饉によって救荒作物として注目され、幕府も栽培を奨励し、八代将軍吉宗の支持を受けた青木昆陽(1698-1769)が中心になって、全国への普及に努め、東日本にも普及された。

サツマイモが日本を、そしてアジアを救うことができたのは、サツマイモの栄養価が高く、収穫量が多かったからである。エネルギー源としてのデンプンの含量が多く、すべての作物の中で単位面積当たりのカロリー生産量が最も高く、稲の1.7倍もある。ビタミンB1、ビタミンCも多く、カルシウムもかなりあってこの点でも米よりも優れている。
 それに加えて栽培が容易だった。肥沃な土地より荒れ地を好むという便利な作物だったから、肥料もいらない。乾燥地を好むから灌漑水路もいらない。寒冷地での栽培や冬の貯蔵は難しかったが、旱魃や多雨に強いことに加えてイモが地下にあるため虫害にも強く、暖かい土地では素人でも簡単に栽培できた。
 14、15世紀から18世紀までの間に日本の人口は約5倍になったから、大規模な開墾をしても慢性的な食糧不足が続いていた。飢饉ともなれば多くの人命が失われ、江戸時代の三大飢饉の時には合計240万人の死者が出ている。
 しかし、サツマイモの導入以後、栽培適地の中国、四国、九州では餓死者は出なかっただけでなく人口が増えた。そして、サッマイモは明治維新を支えるようになる。薩長土肥の四藩は皆、サツマイモ常食藩だったため、維新戦争に動員する兵力が他の藩に比べて格段に多かったのだ。