シチダンカ(七段花)


 
 ドイツ人の医者であり、生物学者のフランツ・フォン・シーボルトは1823年8月にオランダ商館の医師として長崎にやってきた。当時日本はオランダ人以外の入国は禁止していたが、シーボルトはオランダ人と偽って入国した。オランダ語の通詞(通訳官)は彼のオランダ語を怪しんだが、山オランダ人だと答え事なきを得た。
 オランダ商館員は長崎出島からの外出を禁止されていたが、シーボルトは優秀な医者であったため、出島から外出し長崎の人に診察することが許され、また薬草採集との名目の外出も認められた。さらに翌年には出島の外に西洋医学(蘭学)の教育を行うため鳴滝塾を開くことも認められた。1825年には出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培した。また、動物標本や、植物標本を弟子をも使って積極的に収集した。絵(図譜)に残すことも行い、日本の絵師を使って植物画を描かせた。帰国に際して、持ち帰った図譜は1000枚にも及んだ。
 「シーボルト事件」により文政12年(1829)に日本から追放になってドイツに帰国したシーボルトが、日本から持ち帰った植物の資料の研究をミュンヘン大学教授のヨーゼフ・ツッカリーニ(Joseph Gerhard Zuccarini, 1797-1848)に依頼し、彼との共著で植物図鑑「フローラ・ジャポニカ(日本植物誌)」が完成した。しかし,シーボルトは完成を待たずに1866年にミュンヘンで亡くなった。70歳であった。図鑑は全2巻からなり、ラテン語の記載とフランス語の解説があり、植物の分類はツッカリーニによる。第1巻(1835-41)には観葉植物と有用植物、第2巻(1842-70)には花木や常緑樹や針葉樹が収められ、持ち帰った図譜の中から両巻で150枚の彩色図版が選ばれて収められている。
 そのうち19枚がアジサイ科(エングラー体系ではユキノシタ科)で最も多い。アジサイ科は東アジアと北アメリカにしか分布せず、ヨーロッパにはない。シーボルトはアジサイがお気に入りだったようだ。彼はアジサイに日本人妻の楠本滝の名前であるオタクサとつけたくらいである。
 この図譜の1枚にシチダンカがある。しかし、日本の植物学者が探しても見つからなかず、学者の間ではシーボルトが日本に来るまでの間に採集したもので、それを間違って日本の花としたものだろうと考える者もいた。シチダンカは「幻の花」といわれた。それが、昭和34年(1959)に六甲小学校の用務員をしていた荒木慶治氏が六甲山ケーブルの沿線で見慣れぬ花を発見し、それを植物学者の室井 綽(ひろし)に送ったところ、シチダンカであることが判明した。まさにシーボルト以来130年ぶりの発見だった。シチダンカはその株をもとに増殖されたが、原木はその後の山崩れで無くなった。

 シチダンカはヤマアジサイの変種であり、江戸時代に六甲で栽培された園芸種とみられる。高さ1mほど。葉は楕円形で互生。花の色は淡い青色だが、落花までの間に薄紅、濃紫、藍色などに変化する傾向がある。ヤマアジサイとの違いは、両性花が退化していて花が咲く前に落ちてしまうことと、装飾花が重弁化していることである。両性花が開花しないで落ちてしまうため種ができず自然繁殖しにくい。そのため現在みられるシチダンカは発見されたものを元に挿し木によって増殖されてきた。和名の由来は、装飾花の萼片が塔状に多数重なるのを七段と表現したことによる。