ソバ 大晦日には蕎麦屋の前に行列が出来る。年越し蕎麦を食べるためである。大晦日に蕎麦を食べることが行事化している。本来年越し蕎麦を食べるのは、一年間の厄をはらい、悪縁を絶ちきって、細く長く生きることを願ってのことである。 このような習慣はいつ頃から始まったのだろうか。 ソバは中国が原産地で、日本には縄文時代の終わり頃か弥生時代の初め頃には渡来していた。高知県南国市にある縄文時代後期から弥生時代にかけての生活痕跡が残る田村遺跡など各地の弥生遺跡から、ソバ、イネの花粉が検出されており、伝来年代は明かではないが弥生時代から焼き畑農法で利用されていたと考えられている。そして、奈良時代以降朝廷が他の穀物の不作に備えて栽培を奨励した。ソバは初め粒のまま粥やそば飯にし、また米や麦、雑穀に混ぜて炊いたが、石臼が渡来すると粉に挽き、湯で溶いて餅のようにしたそばがきを作った。さらに江戸時代初期にそば粉から麺が作られた。そば粉を水で練り、手打ちうどんの要領で麺にしたものをそば切りと呼び、のち単にそばと呼ぶようになった。そば粉はグルテンを含まず単独では麺条を作れないので、初めの頃は重湯、豆腐、ヤマノイモなどをつなぎにし、また茹でたそば粉の一部を糊状にして麺条を作った。寛永年間(17世紀前半)に朝鮮の僧元珍か小麦粉をつなぎとする技術を伝え、わが国のそばが完成した。初期のそばは蒸して作ったので、元禄の頃までそばは蒸籠(せいろ)を持つ菓子屋の副業であったが、江戸で愛好者が増え、そば屋が独立して麺を茹でるようになった。また初めは味噌味であったが、醤油の普及につれて醤油味になった。 18世紀後半には店を構えるそば屋が増え、万延元(1860)年の調査では江戸に3763軒のそば屋があった。江戸時代中期頃から年越し蕎麦が食べられるようになった。 ソバはアジア、中近東、ロシア、ヨーロッパでも古くから食用にされた。料理の形態はそば飯、粥、そばがき、麺、平焼きなどで、近代までそばは他の穀物の補助的または救荒的利用が多かった。麺は日本のような手打ちは少なく押し出し式で、中国の河漏(かろう)麺と朝鮮半島の冷麺が有名である。ネパール、ブータンではそばがきが多く、辛味をつけて粉乳をかけ手食する。多くの国ではそばがきは鍋で多量に作り、大勢で食べる。わが国のように椀の中のそば粉に湯を入れて一人分を随時作るやり方は珍しい。ロシアからポーランドのカーシヤはそばの硬粥で、粒のままあるいは粉から作る。ヨーロッパでもブイイと呼ばれる粥はソバを麦類や野菜と煮込み、日常的に食べた。 そば粉の平焼きで有名なのはフランスのガレットで、貧しいブルターニユの地方料理であった。今では小麦粉を用いて高級嗜好食品になっている。 ソバはタデ科ソバ属の1年草である。スイスの植物学者オーギュスタン・ピラミュ・ドゥ・カンドール(1778 ? 1841)は、中国北部からバイカル湖付近がソバの原産地だという説を提出し、これが信じられてきた。しかし、1980年代から2000年代に京都大学の名誉教授であり植物学者の大西近江らがインド、チベット、四川省西部など各地に自生するソバを採集し集団遺伝学的研究を行い、中国南部にソバの野生祖先種が生育している事を見出したことから、中国南部説が有力となっている。 ソバの草丈は60-130cmで、茎の先端に総状花序を出し、6mmほどの花を多数つける。花の色は白、淡紅、赤、茎の色は緑、淡紅、濃紅で、鶏糞肥料のような臭いを放つ。果実の果皮色は黒、茶褐色、銀色である。主に実を食用にする。 種まきをしてから70-80日程度で収穫でき、痩せた土壌でも成長し結実することから、救荒食物として5世紀頃から栽培されていた。 ソバはタデ科の植物であるが、でんぷん質の種実が得られるので普通穀類に含める。しかし他の穀物のほとんどがイネ科の作物であり自媒性(自花の花粉で受精できる)であるのに対して、ソバは他媒性で必ず他花の花粉が必要である。花粉の媒介はミツバチやハナアブ類等の訪花昆虫によって行われる虫媒花である。それで花がたくさんついても結実の割合は必ずしも高くない。 ソバは日本が世界最大の消費国だが、自給率は20%ほどで、ほとんど中国、アメリカからの輸入に頼っている。日本の生産量日本一は北海道である。 国産品は品質が良いが、輸入品の5?10倍の価格と高い。これは他の穀物よりも単位面積あたりの収量が低いことが大きな原因である(コメは500kg/10a、小麦は300?600kg/10aに比し、ソバは80?100kg/10aである)。 |