ユリ科チューリップ属の多年草。 中国天山山脈の麓の中央アジアが原産地と考えられている。そこからコーカサス地方、イランからパミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、カザフスタンのステップ地帯、トルコのアナトリア地方へと広がった。但し、トルコにも野生種は知られておらず、雑種起源の園芸種と推定されている。日本には文久年間(1861~64)にヨーロッパを経て輸入されたと言われる。 原種は約150種で、園芸に利用されているのは、その内の約20種。栽培の歴史は古く、トルコでは15世紀半ばに本格的な栽培が始まり、16世紀には園芸品種は1000を数えたという。 鱗茎は卵形、茎は円柱形で高さ15~45cm、葉は2~3枚が茎の下部に互生し、広披針形で表は白粉をおび縁は波状。花の蕾は夏の間に鱗茎の中に作られる。そのまま冬を越し、翌春、葉間から花茎を伸ばし、大きな六弁の鐘形花をつける。 一般に原種のチューリップや、園芸種でも草丈、葉、花など全て小型のものは花糸の基部に房状の絹毛が生えている。普通園芸のチューリップをはじめ、草丈も高く花も豪華で大型の種は全て花糸の基部に毛が生えていない。 チューリップといえばオランダの国花でもあり、世界一の生産量である。しかし、本来はトルコの花で現在でもトルコの国花である。 16世紀にオスマントルコが神聖ローマ帝国であるハプスブルク家の首都ウィーンまで侵入した。1544年、和平交渉が行われ、オージェ・ギスラン・ド・ブスベックが大使としてトルコに派遣された。彼は著作家で植物学者でもあった。そこで見慣れない花を眼にしたので、「何という名前か」と聞いた。聞かれたトルコ人は頭に巻いているターバンのことを聞かれたと勘違いして、「テュルパン」と答えた。これが「チューリップ」という名前になった由来である。ブスベックは帰国の際、このチューリップを高価な代金で買い持ち帰った。ウィーン宮殿で栽培されていたが、宮園の園長であるクルシウスがオランダのライデン大学の教授に迎えられたときにチューリップも持参した。オランダで品種改良され殖やされていった。1608年には、フランスでも栽培され、1618年までにはロシアにも入っていた。当時、英仏の貴族の間で異常な人気を博し、この球根が投機の対象となり、ヨーロッパの経済が大混乱した。この様子はデュマの「黒いチューリップ」に描かれている。これを「チューリップ狂時代」という。 チューリップは自家不和合性の植物なので、自分の花粉で雌しべに受粉することはない。種子ができるのは他の種から受粉したときだけである。しかし、種子から育てると、花が咲くまで5~6年かかる。さらに咲いた花は親とは違う性質を持っている。 それで、通常チューリップは球根から育てる。球根を秋に植えれば、翌春には花が咲く。 花が咲く頃には、土の中で球根は分球して2~3個に増えている。 チューリップの球根は糖度が高くでん粉に富むため食用とされる。しかし、球根にはツリパリン類というアレルギー性物質やツリビンという心臓毒が含まれているので安易に食用にするのは危険である。食用になる球根は専用の品種だけである。 チューリップを素手で扱う園芸関係者には、チューリップ指という深刻な皮膚疾患に悩む人が多い。全草、特に鱗茎には、前述のツリパリン類(tulipalins)、ツリポシド類(tuliposides)が含まれる。前者のうち、ツリパリンAは、深刻なアレルギーを引き起こす主犯格で、ツリパリンBも弱毒性ながら共犯者として暗躍する。ちなみに、ビニール製手袋の装備は、なんの気休めにもならない。ツリポシドAは容易にこれを貫通し、皮膚まで達してその組織を破壊してみせる(J.G. Marks Jr、1988年)。 大量の球根を扱ったり花がら摘みをしたりする人、チューリップやアルストロメリアをアレンジメントなどで愛用する人は、ゴム製か革製の手袋を活用したい。こうした注意事項は園芸の専門書にも載っていない。 |