チューリップ3


 
チューリップ・バブルはあったのか?

 チューリップは中央アジアが原産とされ、そこからコーカサス地方、トルコのアナトリア地方、イランからパミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、カザフスタンのステップ地帯へと分布を広げていった。
古くはオスマン帝国でもてはやされ、オーストリア(神聖ローマ帝国)の大使オージェ・ギスラン・ド・ブスベックによって初めてヨーロッパに伝わる。
チューリップは、他の植物にはない鮮烈な色味あふれる花弁をもち、当時ヨーロッパにおいて知られていたどの花とも異なっていた。比類ないステータスシンボルとしてチューリップが登場した時期は、オランダ黄金時代の幕開けと重なり、新たに独立を果たしたオランダが貿易によって富を増やしていた。アムステルダムの商人たちは、収益性の高いオランダ東インド会社の貿易の中心となっており、その貿易では1回の航海で400%の利益を上げることができた。

チューリップが投機の対象となり、チューリップの花など見たこともない投資家たちもこぞって買い求めるようになった。欲しい人が多くなれば、球根の価格は上がり続けていく。チューリップは儲かる商品である。そのため、盛んに品種改良が行われて、次々に新品種が生み出されていった。珍しい品種を作りだせば、さらにチューリップの球根の価格は上がるのである。
 驚くべきことに価格の高い球根は、一般市民の年収の10倍もの価格がつけられ、家一軒と取り引きされることもあったという。
 この時代は、今では「チューリップ狂時代」と呼ばれている。この時代に特に希少価値があるとされて高値で取引されたのが、「ブロークン」と呼ばれる品種である。これは、花びらに斑入りのあるチューリップである。珍しい斑入りのチューリップのつくり方として、斑入りの花を咲かせる球根の一部を切り取って、別の球根に植え込むという方法が使われていた。今日では、これはチューリップのみに感染するモザイク病であり、1つの花弁の色を2つ以上に分けてしまう「チューリップ・モザイクウイルス」に球根が感染したため生じるものであると知られている。

 
       ブロークン
 1636年までに、チューリップ球根はオランダにとって、ジン、ニシン、チーズに次いで4番目に取引高の大きな輸出品となった。近代の金融取引の方法である先物取引が開発された。チューリップ球根の価格は、球根を実際に見たこともない投資家らによる先物取引での投機のために跳ね上がった。多くの者が、一夜のうちに多額の財産を築いたり失ったりした。 チューリップの花など見たこともない投資家たちもこぞって買い求めるようになった。
  チューリップ・バブルは1636年から1637年の冬にピークを迎えた。転売益を目当てに買う人々で球根の値はどんどん上がった。しかしこれは球根を高値で買い求める人物が現れ続けない限り持続不可能である。1637年2月、チューリップ球根の価格が急落し、チューリップの貿易が停止した。

 しかし、現代の研究者の多くは、チューリップに対する熱狂はそれほど異常なものではなく、チューリップ球根に関しバブルが実際に発生したことを証明するのに十分な価格のデータは存在しないと主張している。
また保存されていた契約書の調査では、バブルのピーク時においても、チューリップ取引は、ほぼ裕福な商人や熟練職人のみにより行われ、貴族はこれを行っていなかったことが明らかになった。バブルに起因する経済の停滞は非常に限られたものであった。ある研究者は、チューリップ市場における著名な買い手および売り手を多数特定し、バブル崩壊期に経済的な苦境に陥った者は半ダースにも満たず、またこれらの者についてもチューリップが原因で苦境に陥ったのかは定かではないという。

現在、オランダは世界最大のチューリップ生産国である。