ウメ① 白梅


 
 バラ科サクラ属の落葉小高木。中国中部原産。梅は中国で「王」とも「兄」とも尊称されたもので、特に中国の文人たちに好まれた。高さ6~10m。早春(1-3月)、花は前年の枝の葉腋に1-3個つき、柄はほとんどなく、径2.5cmほどで、葉より先に開き、芳香ある5弁花をつける。花は両性花と雄花とからなる。両性花では雌しべの周りに40本ほどの雄しべが取り巻いている。結実するのは両性花だけである。ウメは虫媒花で、かつ自家不和合性なので自家受粉では実が付かない。
 記紀に記述が無く、文献上「懐風藻」または「万葉集」に初めて登場することから、日本へは7世紀後半(奈良時代より少し前)に遣隋使か遣唐使が薬木として持ち帰ったのではないかと推測されている。

 唐物文化志向の強かった万葉人は中国から来た、香りのいいこの花に異常なほどの関心を示した。「万葉集」には119首が歌われていて、萩に次いで多い。ただ、この中には大伴家持が催した「梅花の宴」で詠われた歌が含まれている。
天平二年(730)正月、太宰府の長官であった大伴旅人は、山上憶良らを梅見の宴に招いた。このときウメを題に詠まれた歌32首が「梅花歌」として「万葉集」に収載されて
いる。

わが苑に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来るかも (大伴旅人巻5.822)

(私の庭に梅の花が散って、空から雪が降ってくるようだ)

春されば まづ咲く宿の うめの花 独り見つつや 春日暮さむ  (山上憶良 巻5.818)

(春になると真っ先に咲くこの家の梅の花。その花を一人見ながら、春の長い一日を暮すことであろうか)

 ちなみに、この32首の「梅花歌」の序文に、

時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮(はい)後の香を薫(かおら)す。

(訳)「時あたかも新春の好(よ)き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉(おしろい)のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている」
この訳は「令和」の年号を考案したとみられる国文学者の中西進の昭和59年の著書「萬葉集 全訳注 原文付」のものである。
 これまで日本の年号は中国の古典を典拠としていたので、日本の古典を典拠としたのは初めてのことだったので話題となった。

 万葉の時代にはまだ日本の文字(平かな、カタカナ)は無かったので、歌は漢字を借用し万葉仮名として音訓読みで詠んでいた。上記の山上憶良の歌の原文は以下の通りである。

波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈 比等利美都々夜 波流比久良佐武

 万葉集のウメの歌119首におけるウメの表記は「梅」が71首、「烏梅」が35首、「宇梅」が7首、「宇米」が2首、「汙米」が1首、「有米」が1首、「干梅」が1首である。

この内、烏梅(うばい)というのは、中国の6世紀の『済民要術(せいみんようじゅつ)』にその製法が記されているが、梅の実を籠に入れ、かまどの上で燻して作った燻製品である。燻して黒くなるので烏梅とした。これは薬として利用された。烏梅の中国語音は「wu me」である。しかし万葉時代の日本人はこのwuの発音が難しく、「mu me」と発音した。梅はかつては「ウメ」または「ムメ」と言った。ウメの学名はシーボルトが付けたが、Prunus mumeで、江戸時代になってもまだ「ムメ」という呼び方が残っていたようだ。
蕪村の俳句で、『梅咲きぬ どれがむめやら うめじややら』というのがあり、「うめ」でも「むめ」でもどちらでもいいではないかと言っている。江戸時代にも両方が使われていたことがうかがえる。
 いずれにしろ、この烏梅がウメの語源とされている。

また、「万葉集」のウメは全て白梅と考えられている。梅の花が散る様子を詠んだ歌が大伴旅人のように全て雪に例えているからである。