ワラビ(蕨)

   
  石(いわ)走る 垂水(たるみ)の上の さわらびの 萌え出(い)づる春に なりにけるかも(巻8 1418)

 私の好きな万葉集の歌で、天智天皇の第七皇子である志貴皇子(しきのみこ)の歌である。しかし、万葉の時代、日本にはまだ文字は無く、ひらかなやカタカナも誕生していなかった。そこで当時の歌人は中国の漢字を利用し、これを万葉仮名として用いて歌を詠んでいた。この歌の原文は、次の通りである。

  石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成束鴨

 しかしこれでは、現代人には何のことかよく分からない。それで、訳者によって上のように訳解された。ただ、「石激」がなぜ「いわはしる」なのか疑問が残る。別の訳者の訳を見ると、「いわそそく」となっている。
 この歌を声を出して詠んでみると、「いわそそぐ」より「いわばしる」の方が語調がよく、情景をよく表しているように思える。また「激」という字は「そそぐ」という静かな表現より、「走る」という激しい動きの表現にふさわしい。
 この歌には長く寒い冬が終わって、やっと明るい春がやってきたという喜びも表現されている。

 四月、大室山の麓にある「さくらの里」に行く。遊歩道を外れ、草が生い茂る斜面に入ると、あちこちにワラビが顔を出している。一本見つけると大抵その周辺で数本見つけることができる。ワラビを手に余るほど摘み取って持ち帰り、灰汁(あく)を抜いて煮浸しにする。これで春の味覚を楽しむ。
 ワラビはコバノイシカグマ科ワラビ属の多年草である。春になると、土の中にはりめぐらされた根茎から、芽を出してくる。土を押しのけて地上に出てくるときに、葉っぱが傷つかないように先端を丸く巻き込んで折りたたんでいる。
 ワラビの茎のように見える部分は、葉っぱの柄(葉柄)である。ワラビとして摘み取る一本が、一枚の葉っぱである。ワラビはシダ植物であり、葉っぱにはシダ植物に特有の細かいギザギザかある。
 シダ植物は、花を咲かせず、胞子で増える。ワラビやゼンマイなどのジダ植物の、ふつうに目にするからだは、葉の裏面に胞子嚢という小さな袋をつけ、そこに胞子をつくる。胞子嚢が乾燥してはじけると、胞子が放出される。
 胞子が発芽すると、直径5mmくらいのハート形の前葉体となる。これに造卵器と造精器ができる。名前の通りに、造卵器は卵をつくり、造精器は精子をつくる。そして、雨が降ったりして水が十分あると、造精器から精子が泳ぎだし造卵器に達し、卵と受精する。受精した卵からは、芽、茎、根が出て、シダとなる。
 このように、シダ植物には植物が海の中で生活していた仕組みが残っている。すなわち、水がなくては受精することも出来ない。
 ワラビは、地下茎の形で冬の寒さをしのぐ。茎は、土の中に隠れたままで、姿を見せない。地下茎のおかけで、この植物は冬の寒さをしのげる。シダ植物は、普通、じめじめした日陰で育つものである。ところが、ワラビは、そんなにじめじめしていない場所でも育っている。ワラビはシダ植物らしくない場所でも生きていける。地下茎が土の中にあり、土の中には水分が多くあるからだ。
 ワラビは、人間が食べるぐらいおいしいものだから、動物に食べられないのかと心配になる。しかし、動物や虫には食べられないしくみが凝らされている。ワラビには、動物に有害な物質が含まれているのだ。
 牛や馬、羊などの家畜はワラビを摂取すると中毒症状を示し、また人間でもアク抜きをせずに食べると中毒を起こす(ワラビ中毒)。ワラビには発癌性のあるプタキロサイド(ptaquiloside)が約0.05~0.06%含まれる。

 子供の頃、夏になると週に一度くらい屋台を引いてわらび餅を売り歩くおじさんがいた。家の近くの広場に屋台を止めて、ハンドベルを上下に振って「リンリンリン」と鳴らして客を呼んでいた。
 ワラビ餅は屋台に取り付けられた容器の中の冷水に沈んでいる。注文するると、容器の蓋を開け。カス取のようなお玉でわらび餅を掬い、水を切って黄な粉の入った器に移し黄な粉をまぶした後、板を削って船形にした容器に入れてくれ、上から黒蜜をかけてくれた。
わらび餅は夏の何よりのおやつだった。

 わらび餅はワラビの根からとれるデンプンを乾燥させて粉末状にしたわらび粉から作られている。当時は安価なものだったが、現在は高価なものになっている。それは自生するワラビが減少していること、採取が困難なことに加え、精製に手間がかかるためである。ワラビの地下茎を掘り、叩いて、ほぐして、洗って、澱粉を取り出し乾燥させる工程を経てわらび粉になる。10kgのワラビの根から取れるわらび粉は、わずか70gとされ、根を掘り起こす作業は冬の寒い時期に行われ、厳寒期に冷水で何度も洗って精製される。
 結局、近年流通するわらび餅の大半はわらび粉以外のジャガイモの澱粉などが使用されている。