ワタ(綿)


 
 ワタはアオイ科ワタ属の多年草で、約40種からなる。そのうち4種だけが栽培化された。旧大陸では二種、新大陸でも二種のワタが栽培化された。インドワタ(キダチワタ)はインドで栽培化され(確証はないが)、シロバナワタはアフリカで栽培化されたと考えられている。中央アメリカに起源したのはリクチメンで、南アメリカの北西海岸(ペルー、エクアドル)に起源したカイトウメンは後に中央アメリカ、カリブ海、太平洋諸島に広がったとされている。リクチメンはいまや世界の綿花生産の90%を占めている。

 ワタは紀元前5800年ころのメキシコの遺跡から果実が発掘されている。またペルーでも前2400年のワカ・プリエタ遺跡から綿の織物の破片が発見されている。一方インドのモヘンジョ・ダロ遺跡の前3500年の地層から綿糸が発掘されている。これらのことから、ワタは古代から人間に利用されており、しかもインドとペルーでそれぞれ独自に利用され、織物がつくられていたことが明らかである。インドは紀元前数世紀から綿産国としてヨーロッパにまで知られ、その後東南アジア、アラビア、アフリカ、南ヨーロッパにワタ作が広まった。綿織物業は、インドの主要な産業だった。
中世末期には、木綿が貿易によって北ヨーロッパにもたらされたが、それが植物だということ以外詳しい製法は伝わらなかった。それまでヨーロッパで主に用いられていたのは、羊毛などを使った毛織物であり、繊維は動物から得られるものだった。そこでヨーロッパの人々は、木綿がウールに似ていることから、羊が果実のように生える植物があるのだと想像した。ワタはそれほど不思議なものだったのである。

 ヨーロッパに紹介されたワタは、やがて17世紀になって、イギリス東インド会社がインド貿易を始めると、品質の良いインドの綿布がイギリスで大流行するようになる。そしてイギリスの毛織物業者は大打撃を受ける。そこでイギリス政府は、インドからの綿布の輸入を禁止することにした。
しかし、綿布の人気は高まる一方で、対応に苦慮したイギリスは、材料のワタのみをインドから輸入し、綿布の国内生産に努めるようになった。そして、工場制手工業(マニュファクチュア)によって綿織物が作られるようになった。
 しかし、綿布の人気は収まらず、生産が追いつかない。そこに登場したのが、「飛び杼(ひ)」というシンプルな道具の発明である。布を織るためには緯糸(よこいと)を通さなければならない。布が大きくなれば、緯糸を通すことは難しくなるし、助手が必要になる作業である。ところが、飛び杼は、車輪のようなローラーがついていて、素早く緯糸を通すことができる。こうして、布を織る作業が劇的に効率化したのである。
 しかし、布を織る作業が効率化すると、今度は糸をつむぐ作業が間に合わない。やがて糸をつむぐ紡績機が発明された。こうして作業が効率化すれば、生産工場は大規模化していく。大規模化すれば、作業は分業化され、工場はどんどん大きくなっていった。
 そして18世紀の後半になると、安価な綿織物を求める社会に革新的な出来事が起こる。
石炭を利用した蒸気機関の出現により、作業が機械化され、大工場での大量生産か可能になったのである。これが産業革命である。

 産業革命で大量の綿布の生産が可能になると、材料となる大量の綿花が必要となる。とはいえ、暖かい地方が原産のワタは、寒冷なヨーロッパでは生産することができない。
 19世紀には、もはやインドだけでは足りなくなり、イギリスは新たなワタの供給地が必要となった。そして新たなワタの生産地となっだのがアメリカである。アメリカではタバコの栽培が行われていたが、嗜好品であるタバコは価格が安定しない。それに比べると、イギリスのワタの需要はアメリカにとっても魅力的なものであった。新天地のアメリカでは、需要に応えるワタを栽培するのに必要な広大な土地があった。しかし、当時のワタの収穫は手作業で行われていたため、手間が掛かる。種子をやわらかな繊維で包み込んでいるが、実にはトゲがある。そのため、ワタの収穫はなかなかの重労働だった。
 新天地であるアメリカには当然、十分な労働力はなかった。そこでアフリカから多くの黒人奴隷が、アメリカに連れて行かれた。ワタのおかけでアメリカは経済的に豊かになった。そして、ワタのために多くの黒人奴隷たちが犠牲になった。
 こうしてアメリカから大量の綿花がイギリスに運ばれた。そして、イギリスからは機械で作られた綿製品や工業製品がアフリカに運ばれた。そして、アフリカから大量の黒人奴隷たちがアメリカに連れて行かれたのである。このようにして常に船に荷物をいっぱいにするための貿易は、三角形のルートで船が動くことから三角貿易と呼ばれた。

 ワタの輸出によって、ワタの産地であったアメリカの南部は急速に経済的に発展を遂げていった。一方、工業が主産業であったアメリカ北部の人々は、イギリスから輸入される工業製品に高い関税を掛ける保護貿易を行いたかった。しかし、イギリスにワタを輸出している南部の人々は、保護貿易は困る。自由貿易を推進していく必要があった。こうして北部と南部は利害を対立させていく。そして、ついには南北戦争が起こった。
 アメリカで南北戦争が勃発すると、アメリカからのワタの輸出量が急激に減少した。北軍はアメリカ南部の経済的拠り所を押さえようと港からの輸出を封鎖した。しかし意外にも南軍もまたワタの輸出を制限するようになる。ワタが輸出されなければ、イギリスが困る。そうして、イギリスに援助してもらおうと画策したのである。
 そこでこれを阻止したかったリンカーン大統領は、「奴隷解放宣言」を出す。こうして戦争の目  川北稔「砂糖の世界史」(岩波ジュニア新書)      的が奴隷解放であることを内外にアピールすることで、イギリスがアメリカ南部を支援すること                                   を難しくさせたのである。こうした戦略も功を奏して、南北戦争は北軍の勝利で終わりを告げたのである。

 日本へのワタの伝来は、桓武天皇の延暦18年(799)に三河国に漂着したインド人が種子をもたらしたのが初めといわれる。しかしその時には栽培が定着せず、なんと800年ほども後の文禄年間(1592~95)に中国から種子が導入されたことにより九州で栽培が始まり、しだいに関東地方にまで広まった。日本ではそれまで生糸のことをワタとよんでいたが、以来モメン(木綿)という呼び名が新来作物につけられ、しだいにこれがワタの名を奪うようになり、繭(まゆ)からとるものはマワタ(真綿)とよばれるようになった。江戸時代の各藩では、ワタ栽培の振興に努め、日本人のもっとも主要な衣料繊維として利用された。明治時代に入っても官営紡績工場が設けられてワタの栽培が奨励され、明治20年(1887)ころには作付面積10万ヘクタール、綿花2万5000トンの生産があり、ほぼ国内需要を満たしていた。しかしその後日本の綿紡績産業は世界最大に発達し、安価な外国の原綿を輸入するようになった。このため国内のワタ栽培は急速に減少し、いまでは栽培は皆無の状態である。