ヤマブキ(山吹)


   
 ヤマブキには次のような話が伝わっている。

 室町時代の武将で江戸城を築いた太田道灌が武蔵野で鷹狩りを楽しんだ帰り道、山吹の里の近くでにわか雨にあった。ある農家に立ち寄って軒下で雨宿りをした。しかし、雨はいつまでたっても止みそうにない。それで農家に声を掛けると、娘が出てきた。道灌が「蓑を貸してもらえないか」と頼むと、娘はしとやかに小腰をかがめ家の奥に入って行った。しばらくして、黄金色の花をたくさんつけたヤマブキの枝を着物の袂に乗せて道灌に差しだした。
 見当はずれの対応に家来は気色ばんだが、道灌は機嫌よく帰城した。貧しくて蓑がなかった娘は、とっさに「後拾遺和歌集」にある兼明(かねあきら)親王(914-987)の和歌「七重八重 花はさけども 山吹きの 実の一つだに なきぞかなしき」を思いだしてヤマブキの枝を差しだし、和歌に堪能だった道灌もすぐその意味(実の一つと蓑一つを掛けたもの)をさとったのだ。教養ある娘は名を紅皿といい、落人の子だった。

 有名な伝説だが、備前岡山藩の藩士で儒学者の湯浅常山の書いた「常山紀談」によると、立腹して帰ったのは道灌で、後に人から教わるまで娘がヤマブキの枝を差しだした意味がまるでわからなかったという。それで自らの無知を恥じ、それから一念発起して歌を勉強し、その道の大家になったという。

 兼明親王の和歌の序に、「小倉(京都の小倉山付近)の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける」とあり、『常山紀談』と内容はほとんど変わらない。湯浅常山はこの歌の序を元に話を作ったのだろう。ただ元の歌では「山吹の実の一つだになきぞあやしき」となっており、「あやし」は普通ではありえないという意で、裏に申し訳ないという意味も含ませている。

 ヤマブキはバラ科ヤマブキ属の落葉低木で、高さ1-2m。1属1種で、日本と中国の一部にのみ自生。桜前線を追いかけるように日本列島を北上して開花する。葉は薄く互生し、卵形または狭卵形で、長さ3-10cm、幅2 -4cmである。葉の表面は鮮やかな緑色、裏面は淡い緑色であり、全体に毛が生える。花は4-5月に枝先に咲き、花弁は5枚で黄色、果実は痩果である。
 一重のヤマブキには実がなるが、八重のヤマブキには実がならない。それは雄しべと雌しべが花弁に変わったからである。
先の話は八重のヤマブキを扱っている。八重のヤマブキはいつ頃からあったのだろうか。
 万葉集にはヤマブキを詠んだ歌が17首ある。その中に、詠み人知らずの歌で、

 花咲きて 実はならねども 長きけに 思ほゆるかも 山振の花 (巻)10.1860)

という歌がある。歌の意味は「ヤマブキの花は咲いて実はならないけれど、その花が咲くのを長く待ち遠しく思われることだ」となる。すでに八重のヤマブキがあったことが分かる。

 また大伴家持の歌で

 山吹を やどに植ゑては 見るごとに 思ひは止まず 恋こそ増され (巻19.4186)

 という歌があり、すでに万葉の時代にヤマブキを庭に植えて鑑賞していたようだ。

ヤマブキの名前の由来には諸説ある。
① 枝が弱々しく、風に吹かれて揺れやすいことからヤマフキ(山振)の意。
  万葉集では「山振」と書いてヤマブキと読ませている。 
② 山中に生え、花の色がフキのようだから。
③ ヤマハルキ(山春黄)の約。

 中国では花や葉が薬用にされ、消化不良や咳、水腫、関節炎に用いられる。これは山吹色の色素にルティンというカロテノイドの脂肪酸エステルが含まれているからである。ルティンには強い抗酸化作用がある。ただ、過剰な摂取によってカロテノーダミアという皮膚の褐色化が起きるといわれているので、安易な服用は避けるべきである。