7月の中頃になると、美術館の周辺でヤマユリが咲きだす。急斜面や崖状になった所、人家の垣根のそばに咲く。野原や空き地で見かけることはない。この周辺では時に猪が出没し、ゆり根を掘り起こすのでそのせいかもしれない。植物図鑑によると、ヤマユリは多年草で1-1.5mほどの茎の先に1-20個ほどの大輪の白い花を横向きにつける。しかし生長にはとても時間がかかり、種子が発芽するまでに2年、最初の花をつけるまでに5年かかり、それから毎年1個ずつ花を増やしていく。12個まで花をつけているのを見たことがあるが、それ以上花をつけているのを、まだ見たことはない。1-3輪しか花をつけない若い茎では、葉は茎の左右に互生している。4輪以上になると、葉は茎の周りに散状についている。茎は蕾や花の重みでほとんどが傾いている。しかし、まれに花の咲く向きを巧みに変え、全体をうまくバランスさせて直立しているものもある。 ユリ科ユリ属は北半球のアジアを中心にヨーロッパ、北アメリカなどの亜熱帯から温帯、亜寒帯にかけて広く分布しており、南半球にはない。原種は100種以上、品種は約130品種で、アジアが最も多く71種、北アメリカ37種、ヨーロッパ12種、それ以外10種を数える。日本には15種があり、その内7種は日本特産種(ヤマユリ、カノコユリ、ウケユリ、タモトユリ、ササユリ、オトメユリ、テッポウユリ)である。 日本特産種は日本列島がユーラシア大陸から分離した後に分化した種と考えられる。 ヤマユリは日本特産のユリである。ヤマユリの分布はほぼ本州の中央部、糸魚川と静岡を結ぶ線(大地溝帯フォツサーマグナ)の東側(北海道を除く)であり、西側(山口県までと四目)にはササユリが分布している。この分布状態はすでに有史前に確立していたものと考えられる。そして長い年月をかけヤマユリは西に分布を拡げ、近畿地方まで延ばしてきた。それは栽培を目的に移植したものや栽培地から野生化していったものが考えられる。今日では九州や北海道の一部にも見られる。特に神奈川県と静岡県に多い。 ヤマユリは、山中に生えることからつけられた名前である。中国植物名(漢名)は、金百合(きんひゃくごう)、日本漢名では山百合(さんひゃくごう)とよばれる。鱗茎は食用になり、リョウリユリ(料理百合)ともいわれる。 ヤマユリの花びらは6枚だが、外側の3枚は蕚(がく)が変形したもの、内側の3枚が本来の花弁である。ユリやチューリップのように、蕚が花弁と同じ形状になっている場合、植物学では両者を合わせて「花被(かひ)」と呼ぶ。 花は6枚の花被片が、外に弧を描きながら広がって、花径は20~25cmになり、ユリ科の中でも最大級であり、その重みで茎全体が弓なりに傾くほどである。花色は白地に花びらの内側中心に黄色の太い筋があり、紅褐色の小さな斑点が散らばるものが最もポピュラーである。これは花粉を媒介してくれるアゲハチョウを甘い蜜に誘導するための「蜜標(みつひょう)」である。学名のLilium auratumリリウム・アウラツムは「黄金色のユリ」という意味で、この黄色い筋が由来になっている。 生育地域や個体によって変異が大きく、色味などに様々なものがある。花びらの中央に太い赤色があるものを「紅筋(ベニスジ)」、斑点が少ない純白の花を「白黄(ハクオウ)」、花被片の斑点が黄色のものを「白星(シロボシ)」という。ベニスジヤマユリは10年に一度ほどしか咲かない「幻の花」と言われている。褐色の花粉が出て、花の香りは日本自生の花の中では例外的ともいえるほど、甘く濃厚でとても強い。風貌が豪華で華麗であることから、「ユリの王様」と呼ばれる。 鱗茎は、オニユリ等と同様にユリ根として食用となる。多糖類の一種であるグルコマンナンを多量に含み、縄文時代には既に食用にされていた。生のユリ根を煮て調理するとき、よく煮ると糊状となり、美味で去痰の効果もある。 1829年、日本のユリの球根をはじめてヨーロッパにもたらしたのはシーボルトだが、カノコユリ、テッポウユリ、スカシユリは開花したが、ヤマユリは開花しなかった。その三十余年後、世界中にプラントハンターを派遣していたロンドンの園芸家ヴェイチーが日本からもち帰らせてヤマユリを咲かせた。そのヤマユリに世界の目が注がれたのは、1862年、イギリスの王立園芸協会主催のフラワーショーの会場であった。そのみごとな美しさが、フラワーショーの会場を沸かせたのである。 さらに1873年、ウィーン万博で日本の他のユリと共に紹介され、ヨーロッパで再び注目を浴びる。ヤマユリが日本の山野に自生する原種であって改良品種ではないことにまた驚嘆した。それまで、ヨーロッパで白ユリといえば、紀元前から栽培され、キリスト教で処女マリアの象徴とされてきた「マドンナーリリー」であった。しかし、花姿も艶やかなヤマユリは、欧米における「ユリ」の概念を変えた。外国商人たちは、野生のユリの球根を高値で買い集め、横浜港から母国に運んだ。そして、明治23年(1890)には、横浜植木商会も設立され、輸出商品として本格的な球根生産体制が整えられたのである。 それ以来、ユリの球根は大正時代まで主要な輸出品となった。 ヤマユリは現在の園芸品種を語る上でも欠かせない種のひとつである。「ユリの女王」と称される園芸品種のカサブランカは,ヤマユリの他,カノコユリなど日本特産のユリを交配させオランダで育種されたものである。日本特産のユリから生まれた園芸品種のグループをオリエンタル・ハイブリッドと呼ぶ。 |