カーネーション


   
 ナデシコ科ナデシコ属の多年草。原産は南ヨーロッパおよび西アジアの地中海沿岸といわれているが、定かではない。
 茎は直立し、高さ30~90cm。全体に白緑色で、葉は細く、線形で革質。夏、茎上に芳香のある美しい花をつける。原種は一重咲きで花弁は5枚、幅は広く先端に刻みがある。雄しべは10本で花柱は2本、花色は桃色~肉色で芳香がある。萼は円筒形で、先端部が5裂し、基部に数個の小苞をつける。

 園芸種では、八重咲きがふつう。花色、花形も多様になり、多くの品種群が分化している。八重は雄しべや雌しべが花弁に変化したものである。原種の花弁は5枚で雄しべは10本なので、それなら八重の花弁は10数枚なのだが、園芸種には花弁が40枚にもなるものがある。これはどうしてなのか。
 カーネーション(Dianthus caryophyllus L.)の八重咲きは花弁そのものが奇形的に生じる「器官重複」や、一度止まった植物の生長点が再活性化する「貫生」という現象により生じると考えられている。

 カーネーションには母の日のイメージが強く5月の花となったが、露地栽培すると、6~7月頃に開花する。しかし、現実には一年中花屋に並んでいる。これは19世紀にフランスで東洋の四季咲きのセキチクを使って改良したからである。

カーネーションを育成したイギリスの造園家トーマス・フェアチャイルド(1667-1729)は「完璧な青色のカーネーションは完璧な黄色のカーネーション以上に手に入らない。もっとも黄色のカーネーションについては、聞いたことはあるがこの目で見たことはない」と記している。
 青色の花を咲かせるためには、アントシアニンの一種であるデルフィニジンという青色の色素が必要であるが、カーネーションには青色色素がなく、青色の花を咲かせることはできなかった。しかし、ペチュニアやビオラなどの花から青色色素をつくる遺伝子を摂取し、カーネーションの遺伝子に組み込む技術が開発されたことにより、ついに青いカーネーションの生産が可能となった。
青いカーネーションは、サントリーとオーストラリアの植物工学企業Calgene Pacific(現:Florigene)の共同研究開発によって誕生した。
 世界で初めての青いカーネーションは、1997年に「ムーンダスト」ブランドとして発売された。2004年には生花として初めてグッドデザイン賞の金賞を受賞し、2006年には日経、優秀製品・サービス賞の優秀賞を受賞した。


 カーネーションは、日本には江戸時代初期頃にオランダ人によって持ち込まれた。そのためオランダ語のアンジャベルまたはアンジャ(アンジャとは蘭のこと)と呼ばれた。伊藤伊兵衛政武『地錦抄付録』享保18年(1733)には、徳川家光の時代正保年間(1645-1648)にオランダからカーネーションが伝来したと書かれている。しかし、このときには日本に定着せず、寛文年間(1661-1673)に再伝来し、14品種が紹介された。この時期に書かれた『花壇綱目』にも「あんしやべる」の名で記録されている。またオランダより渡来したので、オランダセキ南北戦争中にウェストバージニア州で、「母の仕事の日」(Mother's Work Days)と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するために地域の女性を結束させたアン・ジャービス(Ann Jarvis)の活動にヒントを得たものだが、結局普及することはなかった。

ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、その娘のアンナ・ジャービスは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈った。これが日本やアメリカでの母の日の起源とされる[1]。

アンナの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、1908年5月10日に同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。アンナは参加者全員に、母親が好きであった白いカーネーションを手渡した。このことから、白いカーネーションが母の日のシンボルとなった。アンナ・ジャービスは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案。

1914年に「母の日」はアメリカの記念日になり、5月の第2日曜日と定められた[2]。チクまたはオランダナデシコと呼ばれた。また宝暦年間の1755年に著された橘保国『絵本野山草』にはカーネーションはナデシコなどとともに紹介されている。
日本で本格的に栽培が始まったのは東京の中野で明治42年(1909)からだった。現在では、長野県や愛知県で生産されている。しかし、日本の消費量の5割は輸入で、コロンビア、中国、ベトナムからである。

 カーネーション(Carnation)の名は①原種が肉色をしていたためラテン語の肉(Caro)に由来。②花冠の形が王冠に似ていることから、あるいは花環をつくるのに欠かせない花であったことから、ラテン語の花冠(Corona)に由来などの説がある。

 アメリカの南北戦争中に「母の仕事の日」と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するための活動をしていたアン・ジャービスという女性がいた。
 ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、その娘のアンナ・ジャービスは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈った。これが日本やアメリカでの母の日の起源とされる。
 翌年の1908年5月10日に同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。アンナは参加者全員に、母親が好きであった白いカーネーションを手渡した。このことから、白いカーネーションが母の日のシンボルとなった。アンナ・ジャービスは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案。
 1914年に「母の日」はアメリカの記念日になり、5月の第2日曜日と定められ、母の健在な子は赤、亡くした子は白い花を配ることとなった。

【イタリアの伝説】
 ロンセッコ伯爵のオルランドは結婚式をあげた翌日に、十字軍の騎士として従軍しなければならなかった。新妻のマルガリータは出陣する夫に、白いカーネーションの花と自分の巻き毛を1束贈った。
 1年がすぎ、帰りを待ちわびていた彼女のもとに悲しい知らせが届いた。オルランドは先頭に立ってサラセン軍と戦い、全身に刃を受けて戦死したのだった。彼が肌身離さず持っていた萎れた白いカーネーションの花は、血で赤く染まっていた。形見についていたわずかなタネをまくと、中心部だけが赤い白い花が咲いた。今まで見たこともない色合いだった。以来、オルランドを記念して、ロンセッコ家の家紋はカーネーションである。

【ローマ神話】
 ローマにソニクスという美しい娘が暮らしていた。彼女はカーネーションの冠作りの名人で、太陽神アポロの祭壇も美しく飾っていた。しかし、ある晩、ソニクスを妬んだ者たちに彼女は殺されてしまった。太陽神アポロは彼女の生前の行ないに感謝し、そのお礼としてソニクスをカーネーションに変えて、手厚く弔ったという。